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(5)「善の実」に関するウオッチマン・ニーの見解

前回のテーマ、神の「善」と、
人間の考える「善」との違いがわからずにいた時・・・、

十年程前だったでしょうか、
ウオッチマン・ニー著の「キリスト者の行程」、
「キリスト者の標準」、「霊の開放」
「勝利を得る命」などを読み、

なんとなくキリストの命で生きる事の
実態がつかめて来ました。

今日は、その中で「キリスト者の行程」より、
残っていたメモの中から、

「命の木の実(パラドックス)」で生きる事と
「善悪を知る知識の木(パラダイム)」で生きる事の
違いを知る参考になればと思い、

それに関連した部分を
断片的ではありますが、そのまま載せます。

二つのカウンセリングの実例が取り上げられていました。



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カウンセリングの実例Ⅰ「妻の不倫に悩む牧師」

ある牧師の旅行中に、親友が妻と不倫をして駆け落ちした。
彼は妻と二人の子供と親友を一時に失った。

 不倫した妻に悩む牧師 

「私は妻と友人を赦さなければと毎日思うのだが、毎日失敗する。
彼らを愛さなければと思っても愛せない。私はどうすれば良いのか。」
と聞かれたので「あなたは何もしなくても良い。」と答えた。

すると「では、憎しみ続けていて良いのですか」と驚かれた。


☆彼への説明;問題解決は次の点にある。イエスキリストが十字架につけられた時、彼は単にあなたの罪を取り去られただけでなく、あなた自身をも取り去られた。

☆だから、あなたの古き人も十字架につけられた。だから人を憎み、赦す事のできない、愛す事のできない「あなた」は、十字架にかけられて取り去られたのである。既に約二千年前に。神は私たちの全てを十字架上で処理された。だから、あなたが処理すべき事は何一つ残っていない。

☆だからこう言えばよいだけ。「主よ、私は赦す事も愛す事もできないので、もう努力はしません。ですからそうではなく、それらをあなたが私たちの内になしてくださる事を確信してあなたにお委ねします。あなたが私の代わりに、妻と友人を赦し、愛す事を信じます。このことをあなたが私の内に成し遂げて下さると信じます。」と・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※私;福田がこれを初めて体験した時のお話しをしたいと思います。

結婚した主人の母(姑)は、たいそう几帳面な性格で、非常に真面目な人でした。
私は、逆に大雑把な性格なので、いわゆる「嫁姑の確執」が、結婚当初からなかったわけではありません。

ですが、孫が生まれると母は孫に会いたさに年に数度上京し、そのたびに数ヶ月間、我が家に滞在するようになりました。

私は母に心底からの愛情を感じる事は無理でしたが、愛する主人の大切な母なので、母の滞在期間は、努力に努力を重ねて母を精一杯もてなしました。母も出来る限り私の性格には忍耐して、食器洗いや掃除を手伝ってくれたり、一緒にテレビを見たり、土曜には一家でドライブやショッピングに出かけたりして、それなりに楽しい週日を過ごせていました。

しかし、土曜日の夕ご飯を終えると母は急に暗く寡黙になってしまい、日曜日の朝になると別人のように顔色が悪くなっている母をひとり残して、教会の礼拝に出かけるのが辛い時となるのが恒例となりました。

何かにつけて、「主人が天国に行った時にお母さんがいなかったら悲しむから、イエス様を信じて一緒に天国に行きましょう」と、教会に誘いました。

しかし母は、「私は罪(行動ではなく心の罪だと思います)をたくさんおかして来たから、天国には行けると思っていません。地獄で結構です。」と、頑強に拒否し続けるので、「ああ、世界中の人がイエス様を信じても、母は無理なのかも・・・」と絶望していました。

・・・しかしそんな日々が二十年以上続いたある日、母が久しぶりに我が家に遊びに来た時、私の中に予想もしていなかった出来事が起こりました。

迎えに行った主人の車から降りた母を一目見た瞬間、私の心の中に母を愛する愛が突然に沸きあがってきて、母を抱き上げて、頭を撫でてあげたいほどに可愛らしく見えました。

これが、私が長年信仰生活をしていて初めて体験した「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるの…(ガラテヤ2;20)」…です。私には母を本心からは愛す事ができなかったのに、私の心の内に住むイエス様ご自身がその圧倒的な愛で、母を愛して下さったのです。

それから初めての日曜日の朝、私たち夫婦が二階から降りて来ると、そこにはすっかり綺麗にお化粧し、お出かけのスーツを着、ハンドバックを持ってソファーにキチンと座っている母がいました。そして、「今日から、私もみんなと一緒に教会に連れていって下さい」と言ったのです。

母の心の奥底にも、私の内に愛が沸き上がった時に、聖霊様が触れて下さったのだと思います。

その日、母と一緒に教会の礼拝に向かう車の中は、まるで天国の御使いたちの喜びが降って来たかのように、喜びでキラキラと輝いていました。

★「あなたがたに言いますが、それ(羊飼いが迷える一匹の小羊を見つけ出した時)と同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

それから間もなくして、母は病気で召されました。しかし、母の葬儀が教会でできるなんてずっと諦めていたので、教会での葬儀の間、私たち夫婦は、まるで夢の中にいるかのように幸せでした。

賛美歌を覚えるまでには長く教会生活が出来なかった母の為に、「故人の愛唱した賛美歌」の代わりに、「ふるさと(うさぎ追いしいかの山)」を、親戚中で歌う中で、母は本当の故郷「天国」へ帰って行きました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


☆もしあなたが、おぼれかかっている人を助けようとする時、その人を殴って気絶させてから救助するか、彼がもがき叫んで力が尽きてしまうのを待って救助するかの二つに一つ。もし彼の力が残っている内に助けようとするのであれば、彼が恐怖のあまりあなたにすがりつき、二人ともおぼれ死ぬ。

☆神もまた私たちを助けようとする時、私たちの力が尽きる事を待っておられる。私たちが何もしなくなるやいなや、神は全ての事をなさる。神は、私たちが絶望するのを待っておられる。








 カウンセリングの実例Ⅱ「南中国の段々畑の農夫の話」

日本にも段々畑がありますが、
中国には大規模な段々畑が多くあるそうです。
そんな段々畑を所有しているクリスチャンの農夫が
干ばつになった時に出会った問題です。


 段々畑

干ばつの時に、その兄弟が水車で水を
小川から苦労してくみ上げて田に引き入れたが、
その下の田の持ち主が夜に土手を壊して
自分の田に入れてしまう。

土手を直して新たに水を入れるがまた、
水を取られてしまう。それが3、4回続いた。

「私は忍耐強くあろうと努力し、
仕返しをしないように努めているが、
私の態度は正しいでしょうか」と、相談を受けたので、

あるクリスチャンは祈った後にこう答えた。
「もし正しい事をしようとして努めているだけであったら、
私たちは非常に哀れなクリスチャンである。
私たちは正しい事以上の何かをしなければならない。」

・・・それを聞いた農夫は感銘を受け、
翌朝、彼は低い所にある隣人の二つの田に先に水をいれ、
午後に自分の田に水を入れた。

 段々畑の農夫

すると自分の田の水はそのまま残った。

・・・この行動を見た隣人がその理由を聞いた時、彼はクリスチャンになった。



☆だから主にある兄弟たちよ。あなた自身の正義(善の実の結果)の上に立たないで下さい。あなたが1マイル行き、もう1マイル行ったからと言って、何か正しい事でもしたかのように思わないで下さい。原則は私たちがキリストにならうと言う事である。

★「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(口語訳;マタイ5:41-44;山上の垂訓)

☆私たちは、守るものも要求するものも持ってはいない。ただ与えるべきものを持っているだけ

☆主イエスが十字架上で死なれたのは、私たちのいわゆる「正義」を擁護するためではなかった。主イエスが十字架で死なれたのは、恵みであった。だから私たちは彼の子として、常に他の人々に、彼らが当然受くべき以上のものを与えようとしている。

☆私たちは、自分が正しくない事が、失敗する事がしばしばある事をおぼえなければならない。その失敗から教訓を学ぶ事―――失敗があればすぐに告白し、喜んで必要以上の償いをすることーーーは、良い事。

☆何故なら、私たちが「天にいますあなたがたの父の子となるため」マタイ5:45

☆問題は、事実上の子たる身分である。

★「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」エペソ1:5


★「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」エペソ5:1-2

☆山上の垂訓は私たちがなり得ないほどの高い水準を揚げている。パウロはそれを裏書きしている。私たちの生まれつきの性質の中には、「聖徒にふさわしく歩む」エペソ5:3に到達する手段を見出せない。

☆ではどの様にすればよいか。・・・・秘訣;「私たちの内に働く力」エペソ3:20により苦悩しながら努力している」コロサイ1:29

☆クリスチャン生活の隠れた力は何処から来るか;キリストのうちに安息する事から来る。キリストに神が与えられた地位から力が来る。そこに座する者は歩く事ができる・

☆私たちは、人の前に絶えず歩むために、永久にキリストと共に座する。動力で動くいざリ車に乗ったいざリを想像する;彼は座っているだけだけれど、前進している。・・・

★「信仰によってキリストがあなた方のうちに住み」エペソ3:17

★「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」エペソ2:10


☆「愛を下さい」と祈る時、それを得る事は難しい。愛を祈り求めた事は間違ってはいないが、愛をそれ自体として求めた点に於いて間違っている。

※今から四十年ほど前、関東では東京12チャンネルで「レックスパンバード・アワー」のタイトルだったでしょうか、アメリカの伝道者家族によるテレビ伝道番組の放映が何年間かありました。

番組のプレゼントとして「癒し」についての小冊子が送られて来た覚えがあります。

あまり記憶がはっきりしませんが、たしかその本に、当時の日本と韓国の聖霊派の主流であった「病気の癒し」そのものを祈り求め、それを証する風潮とは違う教えが書かれていて驚き、感銘を受けた事を思い出します。

「私たちクリスチャンが、病気の癒しを熱心に祈り求める時、『癒し』そのものだけを取り出して求めるのは間違えている。我々は、『癒し』ではなく、『癒し主』を求めるべきだ」と…。

正直、当時の私たち聖霊派の傾向は、癒し・家族や友人の救い・富・良い学歴・商売や事業の成功・・・の様々な問題点の為に、命令する祈りを試みたり、断食したり、徹夜したり、祈祷院に篭って熱心に祈り、それがきかれた時に神に感謝し、人々に証をして集結するのが常でした。

もちろん、神さまの力の現れ、聖霊様の御業ですから、素晴らしい事です。
人々の、特に一般人の病気の癒しの為に祈る事は、イエス様もなさっていた大切な務めです。

しかし、クリスチャンである私たちに、何かの問題の解決に対する緊急の願いがある時、その事自体を求めることではなく、全ての面に於ける救いと祝福を包括されている「救い主イエス様ご自身」を求めるきっかけとして、神さまが試練を与えられたと把握すべきであったと思います。

私たちは、この世の幸せとされる様々な状態よりも、「主ご自身を知り、共にすごし、真の礼拝の中で霊魂が喜びで輝き、神のご性質に与って似る者となる…」と言う桁外れに大きな祝福を最上のものとして、最も強く求めるべきです。

まさに、神さまが私たちに与えようとしている祝福は、神の栄光に輝くいのちであって、私たちが熱心に願うものは、それに添えて与えられる世のものである場合が多いからです。

私;福田は、そのイエス様そのものよりは、そして神さまの祈ってほしい人々の救いの祈りよりは、先ず、添えて与えられるイエス様の内側の宝を別々に求めて来た為に、その個々の祈りが応えられる事があっても、イエス様のご性質(愛・喜び・平安・寛容・慈愛・誠実・柔和・自制…、そして聖さと謙遜さ)に与る事が出来なかった(遅かった)ように思います。



★「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が全て(愛、平安、健康、聖・・・・)隠されているのです。」コロ2:3

☆神がみずから愛に迫られてあなたの内になしたもう事を、自分の生来の決心の力によって成すために、神の賜物を用いてみようとした点に於いて誤っていた。

☆十字架の力は、私たちの古い性質から出る全てのものを死と墓に運び去るに十分な力を持っている。そして私たちの責任は、これらのものに対して戦う事ではなく、キリストに信頼し、十字架の御業がなされるのを許す事。

☆もう一度、キリストにある私たちの安息の地位を思い出し、そこに立ち、そして「全てのものを捨て去る」

☆神は私たちにキリストを与えておられる。私たちにとってキリスト以外に受けるものは何もない。聖霊は、私たちにキリストを生じさせるために送られている。キリストから離れたもの、キリスト以外のものを生じさせるためではない。

★「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」Ⅰコリント1:30

☆私が必要を感じている時、キリストを自分と別な人格と考え、自分が強く欠乏を感じている「もの」と同一視する事をしなかった。私たちが願う「もの」は空しい。願う「もの」をキリストと無関係に考える時、それらの「もの」は死んでいる。







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その他のメモ

☆アダムが「善悪を知る知識の木の実」を採って食べた日以来、人間は何が善で何が悪かを決定する事に従事してきた。

キリストは命の木であり、私たちはクリスチャンになった時に、命の木から出発すべきで、道徳的な正・不正から始めるべきではない。私たちにとっての問題の全ては「命」である。

☆私たちが、自分が正しくあろうと努力し、他人にも正しくあれと要求した事ほどに、私たちのクリスチャンとしての証しに大きな害を与えたものはない。

☆私たちは、自分が正当的に扱われているか、それとも不当に扱われているかに関心がある。自分を擁護するために、自問自答する。しかしそれらは私たちの標準ではない。私たちの問題とすべき事とは「十字架を負う」事です。

☆「誰かが私の頬を打つのは正しい事でしょうか。」と尋ねる。もちろんそれは正しくない。(先ほどの駆け落ちした友人と妻の行為は正しくなく、牧師には正しかった。)しかし問題は、「あなたはただ単に正しくある事を欲しているのですか。」と言う事。

☆私達信仰者としての生活の標準は、決して「正しいか間違っているか」ではなく、十字架が私たちの生活の標準。十字架の原理は私達の行動の原理である。良い者の上にも、悪しき者の上にも太陽を上らせたもう神を褒め称えよう。・・・神にとってそれは、ご自分の恵みの問題であり、正しいか正しくないかの問題ではない。私達もまた、それが私達の標準でなければならない。

☆正しいか正しくないかと言う事は、異邦人と取税人が原則にするもの(善悪を知る木の実を食べた結果)。しかし、私たちの人生は、十字架の原則、神の完全の原則によって支配されるべき。(命の木の実を食べ続けてゆく)しかし、私たちの人生は、十字架の原則、神の完全の原則によって支配されるべき。

★「それだから、あなた方の天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい。」 マタイ2:48




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★花のライン17休憩
2013年2月8日(金)コチラに続きます。

 
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