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(11)「キリストの岩の裂け目に隠れる」

 45タイトル




前回は、受難日でした。

イエス様が十字架で息を引き取られた時に裂かれた「垂幕」と「岩」から、私たちを霊魂を潤す「生ける命の水」が湧き出す場面を見て来ました。

イエス様がが十字架によって裂かれた岩には、大きく三つの意味があり、今週は二番目の意味「栄光」との関係を、見て行きましょう。





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「モーセが栄光を見た時」


シナイ山の山頂を至聖所として神の臨在が宿り・・・、

 45シナイ山の山頂

モーセが神の指で書かれた十戒の石版を持って山を降りると、そこでは民が金で子牛の偶像を作り、礼拝をしていました、

★出エジプト32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」

 45黄金の牛

★32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあのを投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった

モーセも怒りましたが、神はもっと怒り、その日に内に三千人がレビ人の剣によって倒れました。

★ 32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」32:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

しかしモーセは、ここで神に対して、自分の永遠の命を差し出して、必死で民をとりなし始めました。

★ 32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 45モーセの祈り

★32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。 32:34 しかし、今行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」32:35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。



モーセは、会見の天幕(まだ幕屋ではなく)で、神と友のように語り合いました。

★33:7 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。33:9 モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた

33:11 主は、人が自分のと語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。


 45会見の幕屋

なおモーセは深く祈ります。

★ 33:12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。・・・33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。・・・」33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」33:15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」

★33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」


ここまではっきりと神の約束の言葉を聞いてもモーセは、民を導くには神様の更なる確証を得ようと、究極の祈りをします。自分の能力で神の業を行なう事に、完全に絶望していたからです。

★33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

神様はモーセに神の栄光を見る事ができない事を伝えました。宇宙に太陽系がどれ程に数多く存在するかわかりませんが、たかが被造物のひとつに過ぎない太陽の側にすら人間は近付く事はできません。ましてや神の栄光を見たら、死ぬどころか、溶けてしまうでしょう。

★33:19 主は仰せられた。・・・「あなたはわたしのを見ることはできない。はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

そこで、神様の提案がありました。

★33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

このようにしてモーセは、もう一度シナイ山の頂に石版二枚を携えて上り、岩の裂け目に隠れ、神の御手で守られて神の臨在を体験しました。

★34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、34:9 お願いした。

 45モーセ岩の裂け目

★34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

そこで40日40夜も神と共に過ごして、教えを受け、契約を結んで山から降りて降りて来ました。

★34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分ののはだが光を放ったのを知らなかった。 34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

 45モーセの顔の光





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(2)「エリヤが栄光を見た時」

預言者エリヤもまた、山の頂上を至聖所として御臨在を顕す神と出会いました。

エリヤはケリテ川のほとりに住んでいた時期、飢饉の中でカラスに養われたり、やもめの家で油壺など数々の奇跡を体験した素晴らしい神の僕でした。(Ⅰ列王17章)

 45エリヤの食物

★18:1 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」

エリヤは、アハブがイスラエル王国の王であったとき、預言活動を開始し、エリヤがサマリヤ地方を去ってヨルダン東岸のケリテ川のほとりに三年住んでいた間、イスラエルには雨がなく、厳しい飢饉がありました。

エリヤはイスラエルに戻り、偶像礼拝をするバアルの預言者450人、アシラの預言者4百人、イゼベルの食卓で食事する者たちと、どちらの神が真の神で、祈りに応えて雄牛の祭壇に火を下さられるかの競争をしました。バアルの預言者たちとエリヤはカルメル山に祭壇を築いて、それぞれの神に祈ったところ、エリヤの神のみが、水浸しの祭壇に天から火を下す奇跡を起こして大勝利しました。

 45エリヤ

★Ⅰ列王 18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」18:38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

★18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した

その後、エリヤが祈った時に大雨が降りました。

アハブ王は大雨の中、宮殿に帰り、一部始終を王妃イゼペルに伝えた時・・・、王妃イゼベルの憎しみを買って命を狙われ、カルメル山で大勝利を収めて真の神の力を証明したエリヤでしたが、イゼベルを恐れて荒野へと逃げました。

★19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

なぜ神の人エリヤが、死を願うほど迄に心(信仰)が弱くなったのかは、最後の言葉「私は先祖たちにまさっていません」にヒントがあります。カルメル山で大勝利をした時に心の背後で、これでモーセなどの有名な預言者に近付いたような自尊心・傲慢が芽生えたのではないかと、推測されます。

かつて鳥とやもめに養われたエリヤは、荒野の中で御使いによって養われました。

★19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

 45エリヤの荒野

イエス様が洗礼を受けられてすぐに、御霊に導かれて40日40夜、荒野で過ごしサタンの試みに遭われたように、
モーセが、ミディアンの荒野で40年間訓練されたように、
そのモーセが導くイスラエルの40年間荒野をさ迷ったように、
エリヤ40日40夜、荒野を歩きました。

★19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

導かれたのは、かつてモーセも主の臨在を体験した、シナイ半島の南端ホレブの岩山地帯でした。

カルメル山で、正面から向かって来るサタンと戦って、神の御力により大勝利をしたものの、自分の心の背後にそっとサタンの性質を持って忍ぶ込んだ悪霊に負けて弱くなったエリヤに、神はモーセの時のようにご自分の臨在を顕そうとされました。

★19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」

 45エリヤの山頂2

すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。


★19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

シナイ山、ホレブの山は岩山です。その山頂のほら穴の入口で、エリヤは神の臨在を体験しました。

 45エリヤの山頂

そして神は、イゼペルを恐れるエリヤに力強い言葉を語られました。

★19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」




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(3)「私たちにも神の栄光を見せて下さい」


エリヤは、心が弱くなって荒野をさ迷っていた時、御使いの焼き菓子と水に力を得て、主の山の頂上「ホレブの岩」の洞窟の入口で「神の臨在」を体験しました。

モーセは、天の御国を象徴するカナンの地へ、うなじの強(こわ)いイスラエルの民を連れ上る自信がなく、「神の栄光」を見たいと熱望しました。

私たちも、この最後の時代にあって、この世の民を天の御国に連れ上る使命があります。

私たちが、その大きな救霊の働きを、神の手足となり声となって取次ぐに当り、徹底して・・・、
①エリヤの失敗のように、自分の栄光を、心の隅にすら宿らせない事
(私たちが主の働きをしている時にも、サタンは高慢を忍び込ませ、他の主の僕と比較させ、十字架の力を弱めます)

②自分の力に絶望したモーセのように、働きの全てを主の力に委ねる事

③先ず、自分が魂の命(プシュケー)を死なせて、心に天の栄光を受け取り、それを世に流す「通り良き管」となる事が重要です。


私たちが栄光を見るには?
 
私たちの霊の所にある天からの栄光を包んでいる「硬い心(石膏の壷)」を割らなければなりません。

イエス様は、十字架上でご自分の肉を裂く事によって、神殿の至聖所への垂幕を裂いて下さいました。

私たちもまた、「神の栄光の宿る霊」を取り巻く、「心の垂幕」を魂を十字架で死なせる事によって、裂かなければ、「栄光」を見る事はできません。

 45の1 心の垂幕
 
★回復訳8:35 だれでも自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために自分の魂の命を失う者はそれを救う


私たちの心の垂幕を裂くとは、私たちが「ガラテヤ2:20」のラインに達すると言う事です。

 45の2 心の垂幕ガラテヤ
 
★回復訳ガラテヤ2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているそのを、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。


イエス様は今、既に神の子である私たちの心の扉「垂幕」を開くように、至聖所(霊)の側から叩いておられます。

私たちを、サタンとの厳しい戦いの中にいる事を忘れさせ、永遠にこの世が続くかのように思い込ませている戦略に騙されないようにしましょう。

 45の3 心の垂幕 扉

★黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と ともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 
私たちが心の扉(垂幕)を開くなら、イエス様が天からの「命の木の実」と「命の川の水」で養って下さいます。
試練の荒野でエリヤが食べたパン菓子と壷の中の水のように・・・。

栄光に輝く天の喜びを体験させていただける主の山の頂上へと導いて下さいます。


今までは、繋ぎの時代でした。キリスト教世界が最も完全になり、多くの魂の大収穫を迎える終末の時、私たちは「天の栄光」を知る真の信仰者となっていなければなりません。

 45の4 心の垂幕 リバイバル

★ルカ18:8 「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」


今すべきは、私たちの心の垂幕(魂の命;プシュケ)を裂くだけです。

私たちの硬い魂の垂幕が裂けさえすれば、天の栄光が私たちの心を満たし、体に溢れて、世の人々へと流れて行くのです。

 45の5 心の垂幕 通り良き管

私たちは「通り良き管」となるだけの使命があります。決してエリヤのように、他の神の僕と自分を比較せずに、イエス様がもう一度現れる時、皆で一緒にイエス様の栄光の中で輝きましょう。




イエス様が、十字架で裂いて下さった岩の陰に、モーセのように、エリヤのように隠れ、神様の栄光を見せていただきましょう。

絶対に、一人で外に出て行かないようにしましょう。
私たちはイエス様の十字架の御許にいる時だけが安全ですし、豊かな実を結ぶ事ができます。

一人で、自分の力で神様の働きをしようとすると、サタンの標的にされてしまいます。
岩で囲まれた洞窟の内側に留まっていましょう。

 45岩の裂け目




・・・聖歌248番「隠せや我を 永久(とこしえ)の岩」・・・ 



  ① かくせやわれを とこしえのいわ おん(御)わきばらに
    わ(湧)くみずと血に きよめよわれの けがれとつみを

  ② のり(律法)のようきゅうに た(耐)ええ(得)ぬわれは こころあつくし
    なきしずむとも いかでかつみを あがないうべき

  ③ うきよをさりて はかにはいるひ さばきのざにて
    きみにお(会)う(お)とき かくせやわれを とこしえのいわ

オルガンだけの伴奏で賛美なさりたい方は【ここをクリック】して下さい。
 




エンディング 
 

神様の僕、キリストの真の弟子になる時、
必ず「試練と訓練の荒野」を通ります。
その当初は苦しく、心や体、環境に痛く感じる時もあります。

しかし、一粒の麦が死ななければ大きな刈り入れを迎える事は出来ません。
耐え忍んで、命の冠をいただきましょう。

★ヘブル12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々平安な義の実を結ばせます。


イエス様だけが、十字架上で御父から見放されましたが、私たちが心の殉教をする時、
体の殉教をする時には、「インマヌエルの主」が共におられ、
その栄光の中で霊魂を輝かせて下さります。

また、この地では決して味わう事の出来ない、
天から来る慰めを味わう事も、素晴らしい体験です。

★詩篇147:3「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。」
 


 3ライン








2013年4月12日(金)コチラに続きます。
キリストの幕屋「①門番ケルビム」」についてです。




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| Ⅱキリストの岩 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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(10)「キリストの岩の裂け目」

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329主題


私たちがこの世にあって、絶望の中でも、患難の中も、逆境の中であっても、天の御国の安息・平安を得るには、どのようにしたらよいのでしょうか?
そして、天の御国は何処から流れて来るのでしょうか?

本日の受難日、イエス様が十字架上でご自分の全てを捧げて下さって私たちに与えられた「神の命(ゾーエー)」を「神の安息」と捉えて、見てゆきたいと思います。

天地創造の七日目に、御父が入られたのは単なる休憩ではなく、「御国の全き安息」です。

★そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。・・・こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記1章2章より

★ヘブル4:3-4 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっている のです。 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

正しく前回の賛美「安けさは川のごとく」の「全て良し」であり、「全て安し」です。
そして、天地創造の時、既に全て御業は完成していました。それを、私たちが日々の歩みの中でどう「御国の全き安息」を実感するかだけの問題です。


以下は、ウオッチマン・ニー著「キリスト者の標」の中の一文です。

「・・・・私たちの内に実在する神のいのち(ゾーエー)のゆえに、主は讃美すべきかな。しかし、なぜその主のいのち(ゾーエー)の表われが、あまりにも少ししかないのでしょうか。なぜそれは、自分の内にだけ留まっていて、溢れ出て他の者にいのち(ゾーエー)を与えないのでしょうか。なぜそれは、私たち自身の生活においてさえ表われることが少ないのでしょうか。なぜいのち(ゾーエー)があるのに、そのいのち(ゾーエー)の印が非常に薄いのでしょうか。

それは、わたしたちの内にある魂(プシュケ)が、そのいのち(ゾーエー)を包み、かつ閉じ込めてしまうために(ちょうどもみが麦の粒を包むように)、いのち(ゾーエー)は出口を見出すことができないからです。私たちは魂によって、生きており自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。

私たちは神から力を引き出していません。いのち(ゾーエー)が溢れ出る道に立って妨害しているのは、魂(プシュケ)なのです。その魂を失ってください。そうしてこそ満たしがあるのです。・・・・」





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(1) 石膏の壷を割る


★イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ14:3)

 石膏の壷

先ほどのウオッチマン・ニーは、神のいのちの霊(ゾーエー)を包んでいる硬い魂(プシュケ)を、石膏の壷のごとくに砕けば、心の奥底の霊の所から、神のいのちが香油のごとくかぐわしく出現する事を説明しています。

★Ⅱコリント 2:14-15 神は・・・至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放って くださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

私たちの心(プシュケー)が砕かれれば、天からのキリストの香りが私たちの心を満たし、体を満たし、周りの人々を満たすだけでなく、天の父の前にかぐわしい香りとなるのです。




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(2) スパフォード兄弟の裂けた心


スパフォード兄弟の場合は、自分から魂(プシュケー)を砕いたのではなく、悲しみで心が張り裂けてしまいました。しかし、その裂け目から、天の圧倒的な平安が魂に湧き上がって来ました。

329すげて安し

この患難とも言うべき悲しみで裂けた自分の心に平安が湧き上がり、その証を聞いた人、その詩を賛美した人の中に天の安息が流れてゆきました。




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(3) アブラハムの失敗


アブラハムがモリヤの山で、神を畏れて一人息子をいけにえとすると言う厳しい命令を守ったのには、かつての大きな失敗があったからです。

かつて、神との契約の為に動物を裂くように命令されていたのに、大きな動物を裂いたものの、小さい山鳩の親子は裂きませんでした。

 アブラハムへの不従順 アブラハムへの罰

しかし、この御言葉への事従順の罰は厳しく、まだ自分自身への暗闇の恐怖なら仕方ないとして、アブラハムが心底悔やんだのは、彼の子孫への大きな罰でした。

 329奴隷生活

★創世記15:13-14「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」

信仰者が御言葉を守らない時、必ず子孫に影響が出ます。

アダムとエバが、たったの一戒「知識の木の実を食べてはいけない」を守らなかったので、全ての人類はサタンの支配するこの地に降ろされ、罪の奴隷とされました。

その代わり、私たちが御言葉に従えば、私たちの子孫は祝福を受けるのです。

★出エジプト20:6 「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す

イエス様は、この地におられる時、御父の全ての言葉を守り、全ての人間は恵みを受けました。

ですから、イエス様の再臨を迎えようとしる今、私たち先に救われている信仰者の生き方が重要です。



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(4)ヨセフの砕かれた心


アブラハムの孫ヤコブは、12人の息子の内、11番目のヨセフを溺愛していたのですが、すっかり傲慢になっていたヨセフは兄たちに憎まれて、奴隷としてエジプトに売られて行きました。

その後、ヨセフは冤罪で囚人となりましたが、その苦しみの中で、高ぶっていた心が徐々に砕かれてゆきました。

そして、「私が…、私が…」と、常に自己主張していた自我が完全に砕かれた時、牢獄から王宮に呼び出されます。その時、ヨセフはパロ王の夢を解き明かすのですが、質問にこう答えました。

★創世記41:15 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」
41:16 ヨセフはパロに答えて言った。「ではありません。がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」


すっかりヨセフの自我が砕かれて、全ての栄光を神に帰すまでに成長した時、神様からの大切な使命が始まり、エジプトナンバー2の宰相の座に着きました。

 329ヨセフ

世界的な飢饉がやって来た時、宰相となったヨセフの計らいで、ヤコブ一族が、飢饉の地から救い出されてエジプトに移住しました。

御父が農夫として、ヨセフの頑強な畑を耕した時、ヨセフがもし、地下牢から外の明るい所に自由の身となって出る事だけを祈りもとめていたら、神様の大切な使命を果たす事は出来ませんでした。

大きな試練があった時に私たちがもし、その問題解決だけを祈り求めるのだとしたら、私たちは試練が終わった時に、御父の望む姿に成長している事はありません。

私たちは、自分の魂の命(プシュケ)を死なせて、天のご計画の中を歩む者とさせていただきたいと願います。




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(5)モーセの絶望


このようにして、アブラハムへの不従順の罰として、子孫はエジプトに寄留者として住み、やがてヨセフの功績を知らない王によって約四百年間、民は奴隷とされます。

その奴隷状態から、神の約束通りに贖い出される為に、モーセが使命を与えられました。

モーセは四十歳まで王子として育ち、その後の四十年間を試練と訓練の荒野で過ごし、八十歳になった時、エジプトから天国を象徴するカナンの地へと、民を連れ出します。

 エジプトを出る


しかし、神の民イスラエルは非常に頑固で、せっかく礼拝の為に荒野に呼び出されたのに、神に対してまでも不平不満を言っていました。

出エジプトをしてから一年目、シナイ山に到着した時、モーセは山頂で「十戒」を受け取るのですが、その時に麓ではモーセの兄のアロンと神の民が、金の子牛の偶像を造って礼拝をしていました。

329荒野で

モーセは、うなじの強(こわ)い神の民を、自分の力では一歩も正しく導く事は出来ないと自分の力に絶望し、全面的に神の同行を求めました。

★ 創世記33:15 モーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」

その後、あれほど信仰の弱かった民は御霊に感動し、エジプト人に持たされた宝を心から進ん余るほどに供出し、知恵を与えられ、それぞれの賜物に従って、何の落ち度もなく立派に「幕屋」を完成させました。

 幕屋完成

私たちは、自分の力に頼ろうとする魂の傲慢(プシュケ)が死ななければ、神の麗しい御業の完成を見る事はできません。そして私たちがその為に働く時、決して苦労に満ちたものではなく「御国の安息」に満ちたものです。

★創世記33:14 主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」




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(6) 荒野での餓え乾き


十戒を受け取り、幕屋を建設したシナイ山に着く前、イスラエルの民はレフィデムの荒野で水に乾いて、モーセを石で殺そうとするほど激しく怒りました。(出エジプト17章)

神の命令により、モーセが神の力を象徴する「杖」で岩を叩いた時に流れ出た水を民は飲みました。

 329岩清水

この、飲み水を求めて神とモーセに逆らった事件は、「マサ(試みる)」、「メリバ(争う)」と呼ばれ、後にもツィンの荒野でもう一度、飲み水を求める「マサ・メリバ」がありました。

この事件は、信仰者にとっての「安息」に重大な意味があるので、詩篇でも取り上げられています。

★詩篇95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。
95:10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
95:11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。
 


Ⅰコリント4:7でパウロは、上記の詩篇の言葉は、神がダビデを通して語ったとあります。

何故イスラエルの民は、幕屋建設前のレフィデムの荒野でならまだしも、御霊の感動を受けた後のツィンの荒野でも、水を求めて神とモーセに逆らったのでしょうか?

この岩から出た水は、イエス様が祭りの日に叫んだ御言葉の「天の御座より、私たちの霊の所に注がれて心に溢れる命の水」でした。

★イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37)

聖霊の水は、イエス様の十字架と復活の後に、天から御父が注いだもので、旧約聖書時代には、一般の民には注がれる事はありませんでした。

幕屋(教会)建設の時にだけ注がれたのです。

しかし、王とか預言者とかの特別な人物にだけ聖霊が注がれていたので、ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23:1-2)」の詩を書きました。

ダビデは、「どんな過酷な環境や大きな試練にあっても、「全て安し」の聖歌の作詞者となったスパフォード兄弟のように、天から来る圧倒的な「安息」を体験していました。

ですから、イエス様の十字架後の私たちに今、聖霊が注がれている事に深く感謝し、どんな時にでも天の安息を体験して生きるべきです。






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(7) キリストの岩の裂け目から


使徒パウロは、この二回のメリバ(マサ)の時に水が出た岩は「キリスト」だと言っています。
そして、出エジプトを振り返りながら、聖霊を宿している私たちに「荒野の民」のようにはならないようにと忠告しています。

神様の聖なる臨在が、エジプトを出た時から、昼は「雲の柱」として、夜は「火の柱」としてイスラエルの民を導いていました。
★Ⅰコリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。
私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

 329御霊の雲

10:2 そしてみな、雲ととで、モーセにつくバプテスマ(洗礼)を受け、

 紅海をわたる

10:3 みな同じ御霊の食べ物(マ)を食べ、10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。

 329マナと水

というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。そのその岩とはキリストです。


マタイは、イエス様が十字架上で息を引き取られた瞬間、神殿の「至聖所(天の御座を象徴)垂幕」が真二つに裂けた事と共に、「岩が避けた」事も書き記しました。

マタイ27:50-51 イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた
 垂幕が避けた

そして、地が揺れ動き、岩が裂けた


 329岩清水3

モーセも、民も、そして私たちも、キリストの岩の裂け目から、命の水の川の生ける水を飲む事ができるのです。
この水を飲む事が、天の父が天地創造の七日目に完成した「安息」です。

安息に入る事は二つの場合があって、一つは私たちの体の命が死んで「天の御国の安息」に入る事であり、
もう一つは、この世に生きていて、「心」の中に「霊」から来る御国の安息が広がる事です。

その道をイエス様が、岩を裂き、ご自分の肉体の象徴である「垂幕」を裂いて開通して下さったのです。

★ヘブル 10:20「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」 

イエス様は十字架で、私たちのための道を開いて下さいました。

この世にいる間は、天からの平安の水を流す水路(道)を、私たちの「霊」の所まで引いて「心」に湧き上がらせ、

私たちの体の命が死んだ時には、天の御国(永遠の安息)への道を、十字架で死んだ時にご自分の肉体を通して開いて下さいました。

 329キリストの岩

神様の命令でモーセが神の杖で岩を打ったのは、永遠から永遠の中でただ一度、神に打たれて贖罪を全うしたイエス様の十字架の事です。

 

ですから二度目のメリバの時に、杖を延べて命令をすれば良かったのに、怒りに任せて自分の考えで岩を二度打ってしまった事が大罪となり、モーセはこの世での安息「カナンの地(天国)」に入れませんでした。









 3ライン


 私たちの霊を包む心の皮は、至聖所の垂幕のように分厚く頑丈です。

私たちが、意識的にこの「石膏の壷」である「心の表皮」を悔い改めて引き裂くか、
スパフォード兄弟のように悲しみ苦しみの時に心が引き裂かれて神様だけを見上げる時に、
アブラハムのように、御言葉に細部まで従った時のように
ヨセフのように自我が砕かれて全ての栄光を主に帰した時のように
モーセのように自分の力に絶望して神に全面的に頼った時に、
ダビデのように悔い、砕けし時に、
天の安息がやって来ます。

45スパフォードとアブラハム45ダビデとヨセフ

神の命(ゾーエー)は、私たちの心の命(プシュケー)が裂かれた時に現れます。
神の給う最も素晴らしきもの「安息(全き平安)」は、天地創造の七日目に完成し、十字架で完了しました。

★創世記2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた
★ヨハネ19:30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。
そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。


御父と御子が始めの永遠から終わりの永遠の中で、私たちの為に準備なさった
最も素晴らしい「安息」を、是非、待ち望みましょう。

スパフォード兄弟も心が平安を得る事などあり得ないほどの患難に直面した時・・・、
既に天地創造の七日目に完成され、
二千年近く前に十字架でイエス様が完了した「全き安息」に入りました。

私たちもまた、既に神様の準備なさった安息。を味わいたいと思います。

★ヘブル4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです

このあまりに素晴らしい体験をさせまいとして、サタンは私たちの心をかたくなにして、邪魔をしているのですね。

ですから、私たちは自分の肉の思い(思弁)と、天から来る神様の言葉(御思い)とを、
オルナンの打ち場にいた「抜き身の剣を持った天使」のように、
聖霊様の剣で切り分けていただきたいと思います。

★ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く
たましい、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです


★ローマ 2:29 御霊による、心の割礼こそ割礼です。






キリストの裂かれた岩である十字架の下で、
心からの賛美を捧げ、インマヌエルの主を体験しましょう

  
①十字架の影に 泉(いずみ)湧(わ)きて
いかなる罪も きよめ尽くす
居(お)らせたまえ この身を主よ
十字架の影に  永久(とこしえ)まで

③十字架の影を いかで離れん
険しき坂を 登る時も
居(お)らせたまえ この身を主よ
十字架の影に  永久(とこしえ)まで



エンディング








 ★花のライン17休憩
2013年4月5日(金)コチラに続きます。
「キリストの岩④岩の裂け目」についてです。


 
 

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(9)「義の御座」⑦私たちの「一粒の麦の死」

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(7)私たちの「一粒の麦の死」
・・・3月1日(金)から始まったテーマの最終回です。・・・ 






【1】「全て安し」


本日は、古くから世界中で愛唱されている賛美「安けさは川のごとく」の背景を知り、「真のキリストの弟子」の姿を見てゆきたいと思います。

下は日本語の歌詞と賛美です。 

聖歌476番「安けさは川のごとく」
 





この賛美の作詞者であるスパフォード(1828-1888)は、シカゴで有能な弁護士として平穏で幸せな日々を送っていました。

 322全て安し1

 
彼はたった一人の男の子を病気で天国に送っていましたが、4人の娘の父親であり、長老教会の熱心なクリスチャンでした。

 322全て安し家族
 
そして当時の偉大な伝道師ムーディーや福音派指導者たちの忠実な友であり支援者でした。

しかし1871年、シカゴに大火災が起こり、それによって一家は経済的打撃をこうむってしまったのです。

 322全て安しシカゴの大火災
 
その後ムーディーが福音歌手のサンキーと共に英国で伝道旅行をする際、スパフォードは落胆した家族をヨーロッパへ連れて行って元気つけようと思いました。 スパフォードはもともとイギリス出身でしたし、同時に親友のムーディーとサンキーの伝道旅行を応援したかったのです。

その旅行予定を立てた1873年11月、スパフォードに急な仕事ができてしまったため、妻と4人の娘たちを先にイギリスへ送り出し、彼は後で合流することにしました。 しかし妻たちが乗った船は、大西洋を航海する途中、英国の大型船に衝突され、12分後には沈没してしまったのです。

 322全て安し4
 
スパフォードの娘タネッタ、マギー、アニー、ベシーは溺死した226人の中に含まれ、スパフォード夫人は奇跡的に救助された数人の中のうちの一人でした。

彼はカーディフ(ウェールズ地方)で待つ、悲しみにくれた妻に会うために、船のデッキに何時間も立ちつくしていました。 

 322全て安し3
 
しかし娘たちが命を落とした辺りを通り過ぎようとしたその時、彼は神から力強い慰めを受けたのです。
大海原を見つめる彼の心を驚くほどの平安が包み込みはじめました。

「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」
その慰めを直接神から与えられるのでした。

そして、聖書の言葉を思い起こすのです。

★「主はこう仰せられる。見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え.. 」 イザヤ書 66:12

その時のことを彼はこう記しています。
“When sorrows like sea billows roll・・・It is well with my soul.”
悲しみが海のようにうねりを上げる時・・・神がともにおられるから私のたましいは平安である。)

以下はスパフォードの原詩を訳したものです。

平安が川のように私の道に手をさしのべる。悲しみが海のようにうねりを上げる。私がどのような状況に置かれていても、あなたは私に語りかけてくれる。神が共におられるから、
わたしのたましいは 平安
である。

サタンが打ちのめそうと、試練が来ようと、この祝福に満ちた安らぎを守ってください。キリストは無力な私のたましいを助けるために、ご自身の血潮を流されたのだから。

主よ、私の信仰が、天の雲が巻かれる日が見えるようにしてください。
その日、ラッパが鳴り響き、主が天から降りてこられる。その時にもしかり。

神がともにおられるから、わたしのたましいは平安である。

ヨブにも似た試練を与えられたスパフォードの信仰告白は、何という信仰の励ましを与えてくれている事でしょう。

このように「安けさは川のごとく」は、どのような時にも神の愛を信じ、神への全き信頼をもって歩む者に与えられる、素晴らしい神の慰めと平安の証しの賛美だったのです。

 322全て安し6
 
こちらの⇒【 】ブログの文章を中心にまとめました。




【2】「It is well with my soul」
 
日本語の折り返しのサビの部分は「全て安し」ですが、英語では「It is well with my soul(魂;心)」です。

日本語では一般の方や初心者には少し伝わり難いのですが、「It is well」は、どんな人にも、「どんな悲惨な試練が襲って来ても『全て良し、何があっても大丈夫』」と言う単純なメッセージが伝わって来ます。

下記は、この賛美の成り立ちと、とても素晴らしいアレンジの英語の賛美です。
2分20秒過ぎたあたりから、前奏が始まります。



この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。(詩篇18:32)

 





【3】私たちの「一粒の麦の死」


スパフォード兄弟はアブラハムのように、いきなりモリヤの山の裁きの岩盤の上に立たされました。ダビデのように、神殿の土台であるオルナンの打ち場に立たされました。

アブラハムの時のように、四人の娘の身代わりの羊もなく、彼女たちはヨブの子供たちのように、一瞬の内に天国に上げられました。既に一人息子も、大火災で財産を失う以前に召されていました。

また、ダビデの罪で民が打たれたように、スパフォード兄弟の罪の身代わりとなって娘たちが死んだわけではありません。

アブラハムとも、ダビデとも、ヨブとも違い、スパフォード兄弟の場合の火の裁き(試練)の使命は・・・、
・・・魂の十字架(プシュケー)の時にこそ現れる、普段は隠されている「神の輝ける命(ゾーエー)」を体験する事でした。

御父が「主の真の弟子」として体験して欲しいの願っておられたのは、地上での最も過酷な試練より圧倒的に素晴らしい「心の奥底から湧き上がって来る命の水の川」でした。

「主の真の弟子」の条件を、イエス様が語っておられます。今回は、回復版訳から主要な所だけ見てゆきましょう。
★回復訳8:35 だれでも自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の魂の命を失う者はそれを救う。 8:36 人が全世界を手に入れても、自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか?

アブラハムのように、モーセのように、ダビデのように、若き日のスパフォード兄弟のように・・・、自分の十字架を負ってイエス様の真の弟子となる為には、「自分の魂の命」を「一粒の麦」のごとくに死なせなければなりません。

★新改訳マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」


イエス様が、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時が迫って来ました。これから再臨前リバイバルを迎えようとしている今、全ての民族、全ての市町村、全ての教会、全ての学校・職場・グループ・全ての親族・家族の中に、多くの「主の真の僕」が必要です。

この地上の恐ろしい患難とも言える未曾有うの天変地異の体の命の危険の中で、真の主の弟子が「魂の平安」を得ていて、世の逃げ惑う人々を天の御国まで導く使命に献身しましょう。






 
3ライン


イエス様は二千年前に、今の時代の私たちの信仰が真の弟子として相応しく成長しているかを心配なさっていました。

★ルカ18:8「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

私たちは今、その為に真の弟子として「火」で試されています。

私たちは、信徒であっても教職であっても、若くても年老いていても、主の真の弟子として自分の魂のいのちを否み、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従って行きましょう。

その中で、命の水の湧き上がって来る歓喜「主のいのち(ゾーエー)」を味わいましょう。

体の命の殉教は一生で一度すが、魂の殉教は毎日、毎時、毎秒する事ができ、天の父を喜ばせる事ができます。

 十字架を通って天の御国へ

「天のお父様、世の人々に先立って、私に御国の平安を体験させて下さい。」

「イエス様、自分の魂を殉教させ、あなたの身幅だけの狭き道を、辿らせて下さい。」

「聖霊様、聖霊の火で私の罪・汚れ・傲慢を日々焼き尽くして下さい。」

 

エンディング 





 ★花のライン17休憩
2013年月29日(金)コチラに続きます。
「キリストの岩④岩の裂け目」についてです。


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(8)「義の御座」⑥二人の方の「一粒の麦の死」

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(6)二人の方の「一粒の麦の死」
・・・このテーマは3月1日(金)から始まっています・・・ 
 





【1】一粒の麦の死

 再臨前の大収穫

私たち真の主の弟子にとって、再臨前リバイバル(大収穫)を迎える為には、自分を「一粒の麦」として死なせる事が必須の条件です。

★新改訳ヨハネ12:23 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

私;福田が、50年も信仰生活をしていて最もわかり難かったのは、上記の箇所と、十字架を負って私に付いて来なさいとの「弟子の条件」の中でイエス様が語られた「自分のいのちの死」です。

この大きな原因は、「自分のいのち」に対応する日本語がない事にあります。

それなので、ギリシャ語に忠実に訳された「回復訳」を読んでみましょう。

★回復訳ヨハネによる福音書12:24「一粒の麦が1地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。 12:25 自分の魂の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の1魂の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」

※回復訳(オンライン聖書 回復訳)は、ネットで無料で読む事ができ、細かい解説が付いています。
教会を召会と訳している所から、私:福田は、ウオッチマン・ニーの流れであるように感じました。一時期、カルトとの疑いがかけられましたが、今は認められています。
以後、新改訳や口語訳などを青色で、回復訳を緑色で表示します。





【2】三つのいのち

 生ける宮の三つのいのち
ギリシャ語の聖書では、人には三つの部分の命が区別されているそうです。



①肉体の命
  
個々の生物の誕生と死によって区切られる有限の生命体「bios(ビオス)」の名の他に、古代ギリシャ語では、動植物を含めた物質的な命として「sōma(ソーマ)」とも言う言葉もあるそうです。


②魂の命

魂(心)の命「psuche(プシュケー)」は、文脈によって、人の生まれながらの命・精神・心と訳せるそうですが、古代ギリシャ哲学の解釈では、もっと複雑らしいです。  

しかし聖書では、「神の考え(パラドックス)」に対抗する、砕くべき「人間の思弁(パラダイム))と捉えています。

★Ⅱコリント10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。


③霊の命

私たちがイエス様を信じた時に、霊の中に神の命「zoo(ゾーエ)」が宿ります。この霊の命は、限りある魂や体の命と異なり、無限の「永遠の命」であるばかりか、歓喜に輝く神の命です。

 イエス様からのプレゼント

★ヨハネ1:4-5 この方にがあった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。




【3】アブラハムの「一粒の麦の死」


アブラハムは、自分の「体の命」がが死ぬよりも、もっと辛い「息子の体の命」を捧げようと、本気で一人息子のイサクの上に刀を振り上げました。

モリヤの山頂の岩場で、イサクは「一粒の麦」として「体の死(殉教)」を覚悟し、アブラハムは「一粒の麦」として「魂(プシュケー)」を死なせ(殉教)しました。

その瞬間、アブラハムの「麦の打ち場である裁きの御座」で、その心を義と認められました。

アブラハムの生涯に於ける数々の御言葉への従順(自己の計画・思弁・高ぶり・・の死)により、約束通り、多くの実を結びました。

★創世記15:5 「さあ、天を見上げなさい。を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 31一粒の麦アブラハム


いったい今、世界にはどれ程多くのアブラハムの子孫がいるのでしょうか?

古今東西、そして終末のリバイバルで大救われて来る人々を入れたら、全宇宙の星の数とどちらが多いのでしょうか?

私たちもアブラハムのように、自分の心の殉教をして、多くの実を結ばせていただきたいと願います。





【4】イエス様の「一粒の麦の死」


イエス様は、十字架の前の晩に、ゲッセマネの園で(一粒の麦)の殉教をしました。その心の痛さで、汗が血のように流れ落ちました。

★ルカ22:42-44 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなくみこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗がのしずくのように地に落ちた。

イエス様は、午後3時頃に、息を引き取られ、(一粒の麦)の殉教を捧げられました。

★ルカ23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

普通の人間でも、事故や、暴力や、病気などで、大きな痛みを体験しますし、現に十字架に付けられた殉教者も多くいました。

しかし、イエス様の痛みは、私たち全人類の全ての罪を担ったので、人間の痛みや苦しみとは比較できない規模です。

しかし・・・、
★イザヤ53:10-11 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう

 31一粒の麦キリスト

・・・イエス様は、ご自分の「一粒の麦」の死を通して、多くの人々が御父の民とされる道を開いた事に、静かに満足なさいました。




【5】イエス様の十字架での「霊」


私:福田は・・・、イエス様の霊は、十字架上で死んだのではなく、アザゼルの山羊として、御父と御霊から、そして弟子たちからも引き離されて、生ける地から絶たれたのだと、理解しています。

★マタイ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

アザゼルの山羊1

アザゼルの山羊2


イエス様は、十字架上でいけにえとなられただけでなく、この「アザゼルの山羊」として、その「霊」に於いて贖罪をされたと思います。

イエス様はは私たちのために、①ゲッセマネの園で心の血を流し、②十字架で血を流して死に、③神に見捨てられました。

★イザヤ 53:8 「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」

イエス様はいけにえの山羊の立場だけでなく・・・、永遠の中でただ一度、私たちの咎を頭に載せられ、アザゼルの山羊として追放されたので、私たち神の子とされた者は二度と、神から引き離される事はありません。

それ故、「私はあなた方を孤児とはしない」と、イエス様が。私たちに力強く語られました。

★ヨハネ14:18-20 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」



御父と御霊から引き離される事に耐えられる人間はいません。最も重い罰は、神なき暗闇の世界にひとりでさ迷う事です。

パウロは同胞が救われていない事で心を痛め・・・、
★ローマ9:2-3「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」
・・と、アザゼルの山羊のように、霊的に神と引き離される事と引き換えに、同胞が救われる事求め祈りましたが、神様は人間にそのような、無理な苦しみを与える事はなさいません。

アブラハムの時からの私たち信仰者に対する約束は「インマヌエル(常に共におられる)」です。

ですから、私たちクリスチャンは、どんなに苦しい環境に立っているとしても、一人ぼっちになったと感じていても・・・、イエス様が、私たちの心の奥底に聖霊として住んでおられ、決して離れ去る事はありません。

イエス様がエルサレム城外、カルバリ山の「裁きの岩盤」上で、一粒の麦としてご二つ面(いけにえ・アザゼル)に於いて自分を捧げて下さったので、私たちは永遠に幸福な者です。

私たちにとって一番の喜びは「主と共にいる」事ですから。
イエス様の十字架の苦しみは、私たちの「インマヌエル」を永遠に保証するためでもありました。






 
3ライン

・・・聖歌 612 番・・・  

①救い主イェスは我が友なり 我に託(かこ)つこと何もあらじ
主は我がすべての全てなれば 世の富誉れをなど慕うべき
  託つ・・・満足せず、不平を言う 愚痴をこぼす 嘆く

≪折り返し≫
主は捨てたまわじ主に行く身を 主は捨てたまわじ主を慕う身を
主は誓いませり御(み)弟子達に 汝(な)を捨て去りて孤児とせじと
 
②親に捨てらるる事ありとも、血を分けし者の忘るるとも、
我に慕わしきイェス君あり、主は常に我を顧みたもう
≪折り返し≫、

③睦(む)まじき仲も主いまさずば 破れはつる事なしとはせず
あり得ぬ事のみある浮世に 一人変わらぬはイェス君なり
≪折り返し≫、

④よし我が友どち我が同胞(はらから) 我に背(そむ)くとも何かはあらん
弟子に背かれし主はことごと 理解したまいて慰めたもう
≪折り返し≫

エンディング 

 









イエス様の、私たちの必要の全てを覆い尽くす十字架の御業に感謝して、
心からの賛美を捧げましょう。

・・・聖歌711番・・・
 
 
①ほむべきかな 御子をくだし 世びとを すくいたもう神

≪折り返し≫
ハレルヤ 我が神 ハレルヤ アーメン 再び我らを 生かしませ

②ほむべきかな 御霊(みたま)をもて やみ夜を照らしたもう神
≪折り返し≫

罪をにない きよめたもう 小羊イエスに栄えあれ
≪折り返し≫

④なが愛もて 内を満たし 炎くだし 燃やしめよ
≪折り返し≫


 


★花のライン17休憩

・・・3月22日(金)コチラに続きます・・・
 

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(7)「義の御座」⑤「麦の打ち(脱穀)場である岩」

思う事1
 「緊急のお知らせ」

3月25(月)より30日(土曜日まで毎晩夜9時より10時半まで、
CGNTVにてオンヌリ教会での受難週特別礼拝がライブで放映されます。
インターネットでも視聴できます。

同時通訳が付いているので、仕事や家事をしながら、
また疲れていても横になりながら、共に礼拝ができます。
また、日を置かずに、録画が「礼拝」の項目にアップされます。

去年はじめて行なわれた
このイースターに向けての礼拝はとても素晴らしく、
自分の家に居ながら、泊り込みで聖会に参加しているかのごとくに、
信仰が燃やされました。

去年の様子も「礼拝」のカテゴリーの「節気別特別礼拝」に
アップされています。




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(5)「麦の打ち(脱穀)場である岩」
・・・このテーマは3月1日(金)から始まっています・・・ 


ソロモンの神殿は、かつてアブラハムが一人息子イサクを捧げようとしたモリヤの山に、建てられました。

★こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。(Ⅱ歴代3:1)

【1】モリヤの山⇒【2】オルナンの打ち場⇒【3】ダビデが買い取ってソロモンが神殿を建てた

ソロモン神殿が建てられた土台岩には、重要な神様のご計画と御心があり、再臨の時を間近に迎えようとしている私たちに対する、驚くべきメッセージがあります。




【1】モリヤの山

モリヤの山は、現在ではエルサレムの神殿の丘と呼ばれる小高い岩地です。

モリヤの山でイサクを捧げたアブラハムは、おおよそ紀元前20世紀ころの人物です。

 モリヤの岩山2 神殿の基となった岩

その後に、ダビデが神様の御心により、神殿用地としてモリヤの山の山頂付近をオルナンから買い上げた時のおおよその年代は、紀元前10世紀ころでした。

その所を、オルナンが麦の脱穀場として使用していたのは、日当たりも風通しも良い平らな岩場であったからです。天の父は、この岩場を象徴的に「裁きの御座」として、アブラハムの信仰を試みました。何を試験したのでしょうか?

アブラハムが、父の御言葉に完全に従う「キリストの身丈」に至っているかどうかでした。

この試練の時、一人息子のイサクも、もちろんキリストの心を持って、十字架とも言える患難の中でも、父の教えに従って「復活させる力ある神」を信じ、従順に祭壇の上に縛られていました。

しかしアブラハムは、生涯を通しての数々の試練を通して、御言葉への従順を学び尽くしていて、父の心を知るキリストの身丈に達していました。

★「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)
★「・・・わたしを見た者は、父を見たのです。・・・」(ヨハネによる福音書14:9)

だからこそアブラハムは、モリヤの岩での試練に合格して、私たちの信仰の父となったのです。





【2】オルナンの打ち場

岩は、御父の限りない愛である「救い(贖い)の岩」であると同時に、御父の決して崩れる事のない完璧な義を貫く「裁きの岩」です。アブラハムには「救い(贖い)の岩」として、オルナンとダビデには「裁きの岩」として、より色濃く表れています。

私たちに重要な聖書の真理を教える為の、神様の大きなご計画の中にあって、この岩のダビデの前の所有者で、エルサレムの先住民であるエプス人の「オルナン」は、この岩を麦の脱穀場として使用していました。

先ずここで、このオルナンの打ち場とはどんなものであったのかを、イラストと聖地旅行記から少し見てみましょう。

 2オルナンの打ち場

神殿の丘の中心的存在は、黄金のドームの真下にある「聖岩(アッサフラ)」です。それは長さ17・4m、幅15・3m、高さ2mほどの石灰岩です。この岩は元来「エブス人アラウナ(オルナン)の麦打ち場」(サムエル記下24・18)でした。広々とした風通しのよい台地に大きな岩があると、そこは農夫にとって最適の脱穀場になります。刈り入れた麦の穂をその上に敷き並べ、太陽の熱で乾燥させてからその穂を打つと、実と殻が分離します。そして箕を使って、実と殻を吹き分けます。(聖地旅行記・高橋秀良牧師説教集より)

オルナンの打ち場とは、マタイ13章「毒麦と良い麦の刈入れ」のたとえ話を指し示しています。

2013年02月08日(金)の心のチャペル(6)「心は土」で、良い畑に落ちて多くの実を結んだ種のたとえ話を学びました。下記は、それに引き続いてイエス様が話された、私たちクリスチャンへの裁きと報いに関するたとえ話です。十字架の贖いによって神の民・神の子とされ、天国に入れる事は確定している私たちの、信仰に入って以後の生涯に対する裁きと報いに関する教えです。

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイによる福音書13:24-30)


 315毒麦と見分3

このたとえ話の意味を弟子達が聞きました。

★イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(マタイによる福音書13:37-43) 
そして、麦と毒麦と分けた後、麦の穂を日に干して乾燥させてから脱穀をしますが、実の入っていない穂は、風に飛ばされてしまいます。

 もみがら
 
2013年03月08日(3)「教会」への二段階の「裁き」で学んだように、私たちの心にイエス様のぶどうの木からの実を結んでいなければ、脱穀場で吹き飛ばされてしまい・・・、裁きの火に耐えない行いは、焼かれてしまいます。これは、未信徒への裁きではなく、クリスチャンへの裁きと報いに関する重要な教えです。

 土台の上に
 

ですから、私たちの心の畑に、
①悔いし砕けし良い土に種がすくすく育つ事、
②ぶどうの木であるイエス様にしっかり繋がって、麦の穂に実が詰まっている事、
そして
③心の中の畑に毒麦がないかどうかを聖霊の示す御言葉によって歩む事が重要です。

せっかく救われて神の子とされた私たちは、サタンに騙されてラオデキヤ教会のように安逸に生きるのではなく、火と共に現れるイエス様に誉められるような生き方をして行きましょう。

★ 恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。

昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
(ゼパニヤ 2:1-3)


今からでも遅くはありません。今からこそが重要です。

★あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネによる福音書15:8)






【3】ダビデがオルナンの土地を買い取ったいきさつ

★ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた・・・・・この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。(Ⅰ歴代21:1.7)
ダビデ王は、サタンに高慢心を刺激されて、イスラエルの全ての祝福が神からであるとせず、自分の業績であると誇ろうとして人口調査を行なったと推測されます。

神は、ダビデの大罪への罰を三つの候補の中から選ばせ、ダビデは、その中から民への罰を選びました。


★すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万の人が倒れた。神はエルサレムに御使いを遣わして、これを滅ぼそうとされた。
 
 ダビデ人口調査の罪 

★主は御使いが滅ぼしているのをご覧になって、わざわいを下すことを思い直し、滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人オルナンの打ち場のかたわらに立っていた。

ダビデは、目を上げたとき、主の使いが、抜き身の剣を手に持ち、それをエルサレムの上に差し伸べて、地と天の間に立っているのを見た。ダビデと長老たちは、荒布で身をおおい、ひれ伏した(Ⅰ歴代21:14-16)

 
ダビデは神に、「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。・・・わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」と、民をかばいました。
 
★すると、主の使いはガドに、ダビデに言うようにと言った。「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない。」

そこでダビデは、ガドが主の御名によって語ったことばに従って上って行った。オルナンが振り返ると御使いが見えた。(Ⅰ歴代21:19-20)


このようないきさつで、ダビデは、祭壇を築いて礼拝を捧げる為にオルナンの打ち場へ出向き、礼拝の為に土地を買い上げました。

 オルナンの打ち場


★ダビデは、その地所代として、金のシェケルで重さ六百シェケルに当たるものを、オルナンに与えた。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげて、主に呼ばわった。すると、主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられた。主が御使いに命じられたので、御使いは剣をさやに納めた。 (Ⅰ歴代21:25-27) 

ダビデの叫びに主が天からの火をもってこたえられ、その大罪が赦されて、御使いの民を打つ剣がさやに納められた時、ダビデは感謝を捧げ、言いました。

★そこで、ダビデは言った。「これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。」そして、ダビデは命じて、イスラエルの地にいる在留異国人を召集し、神の宮を建てるため石材を切り出す石切り工を任命した。(Ⅰ歴代22:1-2)

ダビデはここに神殿を建設する決心をし、準備を始めました。





【4】終末を生きる私たちは


神殿の土台は、裁きの岩でした。

しかし、この裁きの岩は、神の民と不信者とを分ける御座ではありません。

信仰者がどこまで神の基準(ガラテヤ2:20)にかなっているのか、その生涯の善の行いの動機と力が天から来ているのかもが裁かれます。

そして大切な事は、この岩の上での裁きは、神の民を対象としているのではなく、あくまで主の真の僕(アブラハムやダビデ)に対するものでした。

イエス様はこの地におられる時、弟子と、一般の民とを区別しました。また、黙示録では、神の民と祭司を贖うために十字架にかかった事が明白に記されています。

★イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。(黙示録1:5-6)

イエス様の再臨の道備えをする使命のある私たちが、イエス様にだけ従う真の弟子に、モリヤの山でのアブラハムのように御父の心を知ってとりなす祭司に、しみもしわもない聖なる花嫁として、キリストの身丈に至っていなければ、役に立つ事はできません。

 レムナント

生ける宮(教会)は、裁きの岩に立っています。最後の日の火で焼かれる前に、日ごとに聖霊の火で焼かれて心に実を結び、リバイバルの中で用いられる私たちとなりましょう。

私たちは御父と御子からの愛に応え、真の弟子、父の心を知る祭司、キリストの聖なる花嫁とされたいと、自ら献身を表明したいと思います。

 弟子となしたまえ我主よ
  

心の底から、「イエス様の真の弟子としてして下さい」と、賛美しましょう。






聖歌433番「弟子となしたまえ」 
  
弟子となしたまえ わが主よ わが主よ
弟子となしたまえ わが主よ わが主よ
心の底より 弟子となしたまえ わが主よ

愛を増したまえ

聖(きよ)くなしたまえ
 
ユダには(わ) なるまじ

主をば 倣(なら)いたし 
 






Lord I want to be a Christian

 
 
「弟子となしたまえ」は、黒人霊歌です。

黒人教会の礼拝の中で、メッセージをはさんで、
最初と最後に賛美されています。
とても素敵です。
  






3ライン

天の父は今、クリスチャンの中に
これから起こる再臨前リバイバルの土台となるに相応しい
「真の僕」を探しておられます。

聖霊様が今、オルナンの打ち場に立っていた天使のように鋭い剣を持って・・・
焼き尽くす火を伴って私たちの霊の中に立っておられます。

その抜き身の剣は御言葉です。

★ 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く
たましい、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:12-13)


聖書の記事の多くの場合、神の使いが戦う相手はサタンとサタンの手下でした。

しかし今の大切な時代、御言葉の剣も、焼き尽くす裁きの火も、
私たちに向けられています。

私たちに御霊が注がれているのは、私たちをアブラハムのように
ダビデのように、パウロのように・・・、真の神の僕とするためです。

天から来ていない、私たちの肉の思いと肉から出た言動を
正確に見極めて切り離そうとされています。

私たちは今、イエス様の聖さを、愛を、義を、謙遜さを求めて、
十字架の血潮と、聖霊の火と、御言葉の水で、
しみもシワも全くないまでに変えていただく事を切に願いましょう。


エンディング










★花のライン17休憩

・・・3月19日(火)コチラにきます・・
  

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