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(6)「心は土」

今日は、私たち生ける教会のそれぞれの部分が何で出来ているのか?
その素材について、考えて行きたいと思います。

体は、神さまが天地創造の六日目に「土地のちり」を原料として造りました。
ですから、体の素材は土と言うことで明白です。
では、心(魂)と、霊の素材は何でしょうか?

生きている教会

先ず今日は、心の素材を見て行きたいと思います。




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「御言葉の種が蒔かれる畑」

私たちの心は、御言葉の種が蒔かれる畑です。
御言葉の種


イエス様は大勢の群集に向かい、「たとえ話」をされました。

★イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばた に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13:3-9)


 四つの地に落ちた種




このたとえ話の意味を、イエス様ご自身が解説しています。

★「御国のことばを聞いても悟らないと
悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。
chapter4★
道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。


また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
岩地に落ちた2種
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、
みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。


また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、
茨で覆われる
この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、
実を結ばない人のことです。


ところが、良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いてそれを悟る人のことで、
良い畑
その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
(マタイによる福音書13:19-23)





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「父は私たちの心の畑を耕す農夫です」
 

天の父は、私たちの心の畑にイエス様の種である、御言葉の種を蒔きます。しかし、私たちの畑は柔らかく耕されておらず、地表と地中に岩のように頑固で大きい石が点々とあるし、様々な思い煩いや、世の楽しみ、めとったり嫁いたりに夢中になるなど、世に付く思いが心の表面を覆っていて天からの光を遮(さえぎ)っており、心に豊かな実を結ぶ事ができていません。

ですから、農夫である天の父は、環境を変えたり、周囲の人を使って、私たちの心の土を耕します。それが試練と言うもので、心や、体や、自分を取り巻く環境に痛いのですが、仕方がありません。

 j心の畑の開墾

なぜならば、天地万物を創造され、その御力をもって全てを維持しておられる神さまにとって、絶対に勝てないものが、ひとつだけがあるからです。それは人間の頑強な「自我」です。

その例が、創世記のヤコブです。・・・下記は、神の使いが、夜明けまで全力でヤコブと相撲(すもう)をとって、勝てなかったと言う場面です。そこで神の使いはヤコブのもものつがいを打ち、ヤコブはやっと自我が砕かれて神の御前に謙り、祝福を受けました。

 ヤボクの渡し

これ程までに、人間の傲慢は強かったので、神につるはしを振り上げられて打たれた時に初めて、ヤコブの心の畑の土の中にある自我の岩が砕かれた結果、この後の人生に於いて子孫は繁栄し、百倍では収まらない豊かな実をむすびました。

★「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネによる福音書15:1-2)





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「自由意志の目的」

ヤコブに代表される、神さまの御使いも戦って勝てないほどの、私たち信仰者の強い自我は、いったい何時から人間の心にあるのでしょうか?

それは、アダムとエバがサタンに騙されて「善悪を知る知識の木の実」を食べた時からです。

しかし何故、この神さまも勝てないような頑強な「自我」を生み出した「善悪を知る知識の実」を、アダムたちは食べてしまったのでしょうか?

それは、神さまが最初の人間であるアダムにも、御使いにも、全ての被造物を創造する時に「自由意志」を与えた事に原因があります。

御使いの三分の一は、神さまに反逆してサタンになったそうですが、その砕かれていない自我がもたらす最悪のリスクを負ってまで、神さまが被造物に自由意志を与えたのは、私たち人間と、真の純粋な愛で愛し合う事を願われたからです。

人間の行動面だけでなく、心の奥底までをご存知の、人間を造られた張本人である神さまが、強制的で表面的な礼拝で満足されるような鈍感なお方ではないからです。奴隷や兵隊のような気持ちで仕方なく礼拝を捧げる人間や、ロボットのように心に愛もないのに神さまに仕える天使がどんなに多くいても、神さまには何の喜びももたらしません。

被造物が、あらゆる選択肢が可能な中から、神との交流(礼拝)を最上の喜びと把握できない限り、神様は礼拝を喜ぶ事はできないからです。まことの礼拝のもたらす、心が溶けてしまうほどの歓喜を、互いに味わい合いたいが為に自由意志を与えました。

天の父が、私たちを創造した以上、そして自由意志を与えた以上、私たちに目的があります。
せっかく涙をのんで、試練と訓練の荒野に人類を下したのに、地上での命を終えて天国に戻って来る時に、私たちがエデンの園でのアダムのように、無知なままでは戻って来てほしくはありません。

アダムとエバは、聖かったのですが、幼かったのでサタンに騙されてしまいました。今度、天国に私たちが戻って来る時には、イエス様の身の丈(ガラテヤ2:20)にまで成長して、神さまの御心を知る大人となって、豊かな愛の交流が出来る事を、天の父は楽しみに待っておられます。

天国3

私たち人間が成長してイエス様の霊性(性質)を得、サタンに打ち勝ち、神様が人を造られた目的「真の礼拝者となる事」を果たして天国に帰る為に、先ずは私たちの心が耕される事が重要である事を学んで来ました。


罪を犯し、失敗を重ねて神さまに打たれた結果、やっと真の礼拝者の道を歩み始めるのが、私たち人間の常ですが・・・、

・・・神さまに打たれる前に、御言葉に従順して自ら悔い改め、粉々になるまでに自分の心の畑を耕して謙(へりくだ)り、真の礼拝者となって天の父を喜ばす事の出来る人がいたら、その人は稀に見る賢い人です。



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「実はまず心にみのります」


いずれにしても・・・、砕かれた心の畑に、天の御座から出る命の川から、私たちの心の奥底「霊の所」を井戸として水が流れて来ると、先ず私たちの心の中に御霊の実が豊かにみのります。

 御霊の実 ぶどうの枝

私たち人間は信仰者であっても、互いに自分たちの価値観で、目に見える外側の立派な実しか「実」として認めない傾向があります。それが、パリサイ人の宗教的礼拝や、カルト宗教に繋がる危険な考え方です。

しかし神さまは、外側に現れるものが、天から来ているか、人間の心のレベルから来ているのかを重要視されます。私たちの善が、何を動機とし、何処から力が出ているかが神さまの判断の絶対的な基準です。

★「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記上16:7)





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「毒麦も育ちます」


神さまの目から見ると、イエス様を通して心から生み出された実しか良い実として認識されずに、最後の審判の日、サタンの影響を受けた心の思いから出た善の実は毒麦として束ねられ、燃やされてしまいます。

★イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。・・・収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイによる福音書13:24-25.30) 

 毒麦のたとえ

ですから、一見、人間の善では良いように見えて(パラダイム)も、その実はいまわしく、神の善(パラドックス)から出る命の水で実を結ばないかぎり、私たちが信仰者であっても人生の存在価値(神さまの基準で見た良い評価と、それに対する永遠の中での大きな報いを得るチャンス)を喪失してしまいます。

クリスチャンに大きな勘違いが二つあります。

一つは、私たち信仰者の心の畑に、一本も毒麦がないと過信する事で・・・、もう一つは、私たちの心根にサタンの埋め込んだDNA「知識の木の実」があるのに、影響されていないとの信じて疑っていない事です。

イエス様のご生涯だけが、100%良い麦しかみのらなかったし・・・、善悪を知る知識の木の実を食べなかった存在はこの世に生まれた人の中に、イエス様しかいませんでした。

★「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)

私たちは、最後の審判の日、イエス様の再臨の日、自分の生涯の実でイエス様から来ないもの、命の木から来ないものは、どんなに肉の目から見て善に見えても、焼かれてしまいます。

★あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイによる福音書7:16-19)

私たちが、救いに関して、癒しに関して、様々な教会活動に関して、外に実を結ばせて下さるのは神さまの御業です。霊である神様の、手足となって働く私たちは、天と地を結ぶ管に過ぎませんが・・・、

一旦、何らかの実を見ると高慢になってしまい、その後は、自分の考えや実力で神さまの使命を果たそうとなりがちで、それがサタンの策略である事に気づき難いのです。パリサイ人もそれで失敗していましたが、自分が知識の木の実を食べ続けていても、気付く事がありませんでした。

★わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

私も若い頃には、イエス様がパリサイ人を叱責している場面を読む時、他人事として何らの心の痛みも感じませんでした。しかし、年を取るに連れて、知識の木の実である自己義が一人歩きし、他人を裁き、高慢になってイエス様の側からいつの間にか離れている自分を発見しました。私こそ、パリサイ人だと・・・。

私たちは、一度イエス様を信じて、その段階で留まって満足していては危険です。私たちは、イエス様を信じたら一生、イエス様から一瞬も離れず、イエス様の与えて下さる天国からの生ける水を飲み続けていましょう。

★「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(15:4)



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「人間の心を変える二つの方法」


天の神さまが、私たち人間に御言葉を与え、理解できるように聖霊を遣わせて下さっていますが、この自由意志がある限り強制は出来ないので、下記の二つの方法を通してしか人間に介入し、人間の意志を変え、御言葉に従順させる方法はありません。

①環境から働きかけて、心を動かす。
②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。


①環境から働きかけて、心を動かす。
 
ですから、私たちはどんなに苦しい試練を味わったとしても、御言葉の正しさと素晴らしさを知ったのなら、自ら心の一新によって、心の土を砕いて柔らかくし、御言葉を受け入れ、悟り、実行する事が大切です。

神さまからいただいた主要な御言葉には、報い(警告)が必ずついていました。先ほどのヤコブも、そして殆どの旧約聖書の信仰者(アダム・アブラハム・イサク・ヨセフ・モーセ・ヨナ・ダビデ・・・)は、それを事前には悟れず、不従順の罪を犯し、その実を刈り取って初めて神の言葉の正しさを知り、御言葉への従順の必要を深く学びました。

イエス様は、放蕩息子のたとえ話を通して、その聖書の基本的な真理を語っています。

放蕩息子が知識の木の実の結果である「自由意志による傲慢」で父の家を出て行く時、父はその後ろ姿を見送る他はありませんでした。しかし、天の父は、環境を変えて「悔い改め」を迫ります。ですから私たちに試練がある時、自分の心に御言葉に逆らっている所を、聖霊様に指摘してただく必要があります。

どんな大きな罪・汚れがあったとしても、どんなに神さまの御前に突っ張って我ままを通していたとしても、私たちが悔い改めた時、イエス様の十字架の贖いによって、私たちは再び天の父の大きく広げられた腕の中に抱かれ、父の家に永遠に住む事が出来るのです。本当に感謝な事です。

 放蕩息子6

http://www.ebibleteacher.com/chalmers/prodigal.html 
 
Sunday School⇒Children's Lessons⇒下方The Prodigal Son   


 
私たちがこの世の荒野で失敗しつつも、神さまの御言葉の真実を、少しづつ、一つづつ知る時、心の中に、霊から沸き上がる喜びと、天国の平安が体験できます。
★苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇 119:71 )


②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。
 
そして、私たち信仰者の祭司としてのとりなしの祈りが、イエス様の再臨を迎えようとしている今の時代にあっては非常に重要です。

イエス様が天に帰ってから二千年近く経つ間、神様は世の人の自由意志を尊重してじっと忍耐をして待っておられました。しかし、悔い改めて神に立ち返る人は極めて少ないので、最後の手段として、天変地異をもって大きく環境を変えて人類に迫って来るからです。

 終わりの日の前兆

今ほど、天の父が私たちの祈りを必要としている時代はありません。

是非、私たちの心が自ら悔い改めて砕かれ、柔らかい粘土のように練りきよめられ、天の父の願うままに麗しき土の器と作り変えていただきたいと思います。

私たちが完全に大人となって、イエス様のように親孝行な者となり、父の願いである「全ての世の人々が『神の子、神の民』となり、天の御国に私たちと一緒に帰れるように」と、ただひたすら謙遜に祈ってゆきましょう。


英語での賛美ですが、一緒に礼拝に参加し、「私たちの心を、父の御心にかなう姿に練り上げて下さい」との真心からの願いを込めて、共に賛美を捧げましょう。




聖歌295番 「成したまえ なが旨」

 
① なしたまえ ながむね すえつくり 我が主よ 我はただ なが手の 内にある土くれ
② 降る雪の ごとくに 我が内を 白くし ながむねの まにまに 練りたまえ 我が主よ
③ 天(あま)下る 火をもて 我が内を きよくし なしたまえ なが手の 器なる我が身と
④ ながむねの なるとき 他の人は見るべし 我が内に ます君 キリストの姿を 
すえつくり=陶器師




3ライン


土の器

★しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ64:8)



エンディング





★花のライン17休憩
2013年2月15日(金)コチラに続きます。

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(4)エデンの東⑦「パラドックス・パラダイム」

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≪パラドックス・パラダイム≫

しかしなぜ、一見良く見える「善悪を知る知識」とは、特に「悪」ならまだしも、なぜ「善を知る知識」を食べる事が神様にとっては大罪で、人類にとって最悪の結果をもたらす事になったのでしょうか。

それは、無心論者や偶像礼拝者に対する問題ではなく、アダムに代表される「救い主である神を信じ、その御言葉を信じ、御言葉を読み、それを守り、礼拝し、熱心に奉仕をしている信仰者」の心根に、サタンの「高慢(神と同等、否、神よりも偉くなりたい)」を埋め込んで、真の礼拝が損なわれてしまうからでした。

★そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

イエス様は、神の教える善よりも、人間のレベルで考える善を高きものとして疑わず、神の輝くいのちの交流である真の礼拝を捨て、人間の目に正しいと思われる宗教的礼拝で自己満足しているパリサイ人たちを、激しく咎めました。

★イエスは彼ら(パリサイ人・律法学者)に言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコによる福音書7:6-9)

「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。」で始まる箴言三篇でも、「自分の悟り」、「自分を知恵のある者と思う」とあるのが、「善悪を知る知識の木の実」を食べてた結果です。

★「心を尽くして主により頼め。自分自身の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて。悪から離れよ。」箴言3:5−7

自分を造られた神様の考え・言葉・教え・命令・計画・判断・・・よりも、自分の考えや計画を上に置く高慢で、パウロの言う下記の三つの不従順の状態も、まさしく善悪を知る木の実のDNAによる結実です。

★「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(計画)をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」Ⅰコリント10:5-6 


キリスト教世界では神様の絶対的理論と、人間の揺れ動く理論の相違を、いつの日からか「パラドックス」と「パラダイム」と言う数学用語を使って理解するようになりました。

神の言葉(認識)である「パラドックス」は、人のパラダイムとは大きく違う事を言っている御言葉の最たる箇所は、下記のイザヤのとりついだ神様からの預言です。

★「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9

 パラドックス

上の絵は、イザヤ書六章をテーマに描いたものです。私たちの周りを見渡すと、とても「聖とは見えない(パラダイム)」のに、天使(セラフィム)には「神の栄光が全地に満ちている(パラドックス)」様子が見えていました。

神さまの計画の川は、永遠から永遠まで天の川のように大きく高き所を流れており、私たちの思弁の川は、低く、ほそく、何十年間かの限りある存在だと言う意味です。
聖書の真理は、パラドックス(逆説)に満ちています。

私たちは一生をかけて、この地で生きていてなお、「細く短く、サタンの泥水さえ引き込んでいる思弁の川(パラダイム)」から脱出し、「永遠に栄光で輝く雄大な天(てん)の川(パラドックス)」の流れの中で生きる事ができるようになりましょう。

★「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13 )






 ★花のライン17休憩
2013年2月1日(金)コチラに続きます。
「善の実」に関するウオッチマン・ニーの見解 についてです。


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(4)エデンの東⑥「知識の木の実のもたらせた原罪とは?」

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≪原罪と贖い≫

そしてこの、「知識の木の実」の結果である「人間の悟りや計画」に従って、自分の良いと思う道をそれぞれに歩み出してしまう時、それが人間の「原罪」と呼ばれる大罪です。

アダムとエバも、自分達の考えで知識の木を選んで食べる大罪(原罪)を犯し、それ以来の全ての人間がたとえ天の父の御許に戻りたいと切に願っても、決して戻る事はできません。天国の入り口には天使が門番をしていますから。

おのおのが自分の道にさ迷い出てしまって自力では戻れない私たちを、天国に戻れるれるようにする為に、神さまの側はどんな方法を取られたのでしょうか。

人類の全ては、アダムの後ろについて行列になって天国からこの地に降ろされて来たも同然です。しかしイエス様が、わざわざ神の子であるのに不便な肉体をまとってこの世にクリスマスの夜に降りて来られ、33才の時に十字架で私たちの救いの御業を達成して下さり、天国への帰り道を開いて下さいました。

下記左は、旧約時代のヤコブと言う青年が、兄を騙して家を追われ、荒野で石を枕に眠っている時に、天からはしごが下りてきて、天使たちがその階段を上り下りしているのを見ました。

天国への梯子

しかしイエス様は、地から天に向けて十字架のはしごをかけてくださいました。私たちは、イエス様のあとに行列のように従がって天国に帰る事ができるようになりました。

イエス様が、最後(第二)のアダムと呼ばれる理由です。最初(第一)のアダムは、せっかく神さまに息を吹き入れられたのに、罪を犯して霊の中の神の命が死に、私たちを従えてこの地に降ろされてしまいました。しかし、イエス様だけの後に従がって、私たちは天国の門に入る道が出来たのです。

★ 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。(コリント人への第一の手紙15:45)

寿命までしか肉の体で生きる事のできない人間が、霊の体となって永遠の天の都に入る事ができるとは、なんと言う祝福でしょうか・・・。

 412の21台にのアダム




・・・しかし天国の門に来た時、天使は真珠の門を開けてくれるでしょうか?

★私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)

おのおの、自分かってな道に向かって行った私たちの原罪と数々の罪を帳消しにして門に入る事が許可されるように、天の父は、その大切な御子に、アダム以来の人類の罪を背負わせました。

エデンの東7

罪を犯した者は死をもって報いなければなりませんが、罪の全くない聖い存在の死だけが、罪人の身代りとなる資格があり、救済する事ができます。神さま(天の父)の基準で見ては、人間の中に罪の全くない人は誰一人いないので、神の御子イエス様を、私たちの罪の身代わりとして十字架上で死なせ、永遠に輝く命を下さったのです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ 6:23)

この罪が一切無い存在の死のみが、死刑に定められた人の身代わりとなれると言う真理だけを世界中の子供達に理解させようとして、C.S.ルイスは「ナルニヤ物語」を書き、映画化されました。

ナルにア国物語

天の父が、その愛するたった一人の息子に、私たち人類の全ての罪を背負わせて十字架で死なせる他に、私たちを天国に迎え入れる方法は無かったのです。

ここに神さまの私たちに対する愛が示されました。

★神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一の手紙 4:9-10)

有名なイエス様のたとえ話「放蕩息子」もまた、人間の原罪であり、アダムが善悪を知る知識の実を食べた結果である「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行」きました。

 放蕩息子1

放蕩息子が、自分の頭で考えた方法で好きに生きていこうと家を出たものの、放蕩の末に父にもらった財産を使い果たして家に戻って来た時、父が暖かく家に迎え入れ、豪華な衣を着せ、祝宴を開いてご馳走をふるまい、再び息子としたのは、イエス様の十字架の血による赦しがあってこそです。

私たちは、罪の報酬が死しかないとは、何故そんなに深刻な原則があるのかと思いますが、三位一体の神(御父・御子・御霊)が天地を創造され、御使い(後に三分の一がサタンになったそうです)、人間を造られた時から、この罪と罰である死の原則はいささかも変わる事のない不動の「神さまの義」で、その「義」に正面から対立する「神さまの人間に対する愛」が、御子の十字架の患難しか道がありませんでした。







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(4)エデンの東⑤「私たちを追いかけて来る天からの川」

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≪イエス様は私たちの羊飼い「詩篇23篇」≫

 中羊飼いイエス様

イエス様は、私たちを天のいのちの水の川の流れる天国に連れて行って下さるだけではありません。

アダムが知識の木を食べる大罪を犯して、荒地となったこの世に降ろされても、天の父は、エデンの園の中央から流れ出る命の川を、エデンの東の門から流してこの地を潤してくださいました。

エデンの東2


また、せっかくの霊の中にあった神の輝く命がなくなって心が荒地になっても、心の奥底より「天の御座から流れる命の水」を、湧き上がらせてくださいます。

イエス様が私たちの心の中で羊飼いとなって、私たちを「心の奥底から湧き上がって来る命の水の川」のほとりに導いてその美味しい命の水を飲ませ、岸辺に青々と茂った美味しい御言葉の草を、私たちの成長段階に合わせて噛み砕いて食べさせて下さいます。

そんな素晴らしい体験を、ダビデが賛美の詩にしています。

 詩篇23篇1

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 詩篇23篇2


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 詩篇23篇3

「私の杯はあふれています」とは、心の奥底の霊の所を杯として
天国から生けるいのちの水が湧き上がって来た表現ではないでしょうか。

★イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から
生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネによる福音書7:37)

 1杯

★「わたしが与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、
その人のうちでとなり、
永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネによる福音書 4:14 )

 

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 詩篇23篇4

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 詩篇23篇5

私たちの天の父は、私たちの罪が緋のように真っ赤であっても
十字架の血で洗い、完全に雪のように白くして
私たちを、永遠に父の家に住まわせて下さいます。

★ 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。たとい、
紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
(イザヤ1:18)


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≪私を追って来るいのちの川の水≫

 エデンの東5

私たちの天の父は、私たちを東の門から追い出しても
私たちの心の奥底に、天の御座の真下から
追いかけるように、命の水の川を流しておられます。

 地球2

 1矢印

「まことに、 私の命の 日の限り、 いつくしみと 恵みとが、
私を追って 来る でしょう。」 (詩篇23:6a)

東門から出て行った私たちの背中から追いかけて来られ
常に私たちと共にいて下さる「インマヌエルの主」に
真心からの賛美を捧げましょう。



 

聖なる神の霊により 生まれたその名は 
神の子キリスト 救いの君(きみ)

インマヌエル 麗しい御名
共に住む 聖なる主
愛と平和と 慰めに満ちた
神の御子を迎え 賛美をささげよ

聖なる神の霊により 来られるその名は
神の子キリスト 平和の君

メサイヤ(救世主) その名はイエス
いと高き栄光の主
愛と力と 栄光に満ちた
王の王 主を迎え 賛美をささげよ


3ライン



インマヌエルの主


エンディング






 ★花のライン17休憩
2013年1月30日(水)コチラに続きます。





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(4)エデンの東④「荒野で学ぶ」




≪全ての被造物の虚無≫

エデンの園から追放されて、この地に下されたアダムとエバは、神様からの罰を受け、非常に厳しい生活を始めました。エバは出産の苦しみを味わい、アダムは労働の苦しみを味わう事となりました。

★「あなた(アダム)が、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:17-19)

茨の生える地で

全ての被造物は、つかの間の小さな喜びや楽しみ、若さや富や人脈などのゆえの根拠の薄い安心や希望を味わっていますが・・・・、永遠の中での命と、歓喜とも呼べる圧倒的な喜び、岩よりも堅い根拠に立つ希望、天国から来る全き平安を失いました。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(ローマ人への手紙8:19-20)

神さまが、人類をサタンの支配するこの地に降ろし、人類だけでなく全ての被造物を虚無に服させたのは、根拠のある事です。

エデンの園にいながら、自分達を造った神さまの言葉よりも、サタンの偽りを容易に信じてしまった「聖かったけれども考えが幼かったアダムとエバ」が、虚無の荒野の中で苦しみを味わいつつ、必死で神さまを探し出し、その御言葉の正しさを体験して従うようになって、サタンに打ち勝つ者「真の神の子」と成長して天国に帰って来るのが、神さまの意図です。

ここに真の希望の根拠があります。

人類と神さまとの関係は、私たちがなんとなく考えるような「好々爺のように優しそうな神が、雲の上から私たちに祝福を垂れ、死んだら天国につれて行ってくれる」と言う、御伽噺(おとぎばなし)のようなものではありません。

殉教者の受ける患難のように、この世で最も悲惨な生涯であったとしても、永遠の中で神様なしで生きる事(地獄)に比べれば取るに足りず・・・、

逆に、この世で最も富み、最高の名誉に輝き、あらん限りの楽しみと贅沢の限りを尽くしたとしても、神と共に永遠の中で受ける栄誉と富と、心が張り裂けてしまいそうな歓喜に比べたら、比較にもならないのです。

それ故に神さまは、愛して止まない私たちの中に「真の神の子」の出現するのを願って、私たちの霊の所に聖霊(御霊)を送って共におらせ、その成長の一部始終を凝視するかように見守っているのです。

★あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。(ルカ 12:7)
★貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。(ヤコブ 4:4-5)


クリスチャンの中に、イエス様の心を持つ神の子が現れる(ガラテヤ2:20)と言う事は、サタンとの真剣勝負をし、イエス様のようにサタンに勝利して天国に帰り、天の父に「よくやった。、私の息子、私の娘!」とほめられるように生きる事です。

★ 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)


≪荒野で学ぶ≫

アダムとエバは荒野に降ろされて何を学んだのでしょうか?

エバは激しい痛みの中で息子を出産し、アダムは懸命に土を耕して彼らを育てましたが、長男カインは、次男アベルを妬みのあまり殺してしまいました。

カインは、その直前に「罪(妬み)を治めなさい。」と語られた神の言葉を無視したのです。かつてエデンの園で「一戒」を守れなかったアダムとエバは、神さまの御言葉に従う事の重要さを、心が引き裂かれる悲しみの中で学びました。

そして何よりも、アベルを失った事で、天の父が自分たちをどれ程までに深く愛しておられるかと言う「御父の愛」を知り、自分たちを罪の結果に失った時の「御父の悲しみ」を知りました。

父の心

そして、被造物に過ぎない人間が、自分の善悪の判断で考えでよしとして努力しても幸せにはなれず、ただ雨を降らせ、太陽を照らして下さる神様の祝福と守りの中で生きていけるのだと悟ったのではないでしょうか。

殺された次男アベルの代わりに、三男のセツが与えられ、セツに弱いと言う意味の名の「エノシュ」が生まれました。

★セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(創世記4:26)

この弱さを感じた時から、人々は初めて神に祈り始めました。人類最初のリバイバル(信仰復帰)です。

人々が、謙遜に神さまの御前に祈り出したとは、やがて天国に帰る日を迎えようとする人類にとって、最初の大きな一歩です。この地上に於いて自分の命を一日さえも延ばすことの出来ないし、ましてや死んでから、自分たちの努力では絶対に天に帰るのは不可能な私たちです。

★あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:27)

・・・人類が知識の木の実を食べていくら高慢になったとしても、農耕を始めた人間には一滴の雨を降らすことも、太陽を上らせてちょうど良い気温に保つことも出来ません。

しかし天の父は、罪を犯して、荒野に出されたアダムたちに、そし他の神さまを知らない人々にも、耕作用の川をエデンの東から外にまで流して地を潤して、愛を現しておられます。


★一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。(創世記 2:10)


神さまは良い人にも罪人にも、宇宙を保ち、太陽系を治めて、私たちを生かしてくださっているのですが、しかし人類はなかなかその事に気づきません。

★天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

私たちは、この神様の愛と配慮に感謝し,自分の命の日を一日も延ばせない、雨の一滴もふらせられない、太陽の熱の1℃をも変えることが出来ない、一粒の米粒も作る事が出来ない、たったの一円すら、神さまの御心なくしては稼ぐ事がない、弱くて非力な者であることを悟り、ただひたすら謙遜になって、感謝しつつ、祈りつつ生きて行くべきです。

神さまが、私たち人間に荒野にあって最も学ばせたかったのは、サタンと正反対の神の性質「謙遜」です。私・福田が五十年以上神さまを信じて行く内に深く知った事とは、驚く事に「天の父も、御子イエス様も、聖霊様」も、神であられるのに、非常に謙遜な方だと言う事です。

そして、愛である神様は、謙遜に祈る私たちの心に天国から生きる水の川を流してくださいますが、私たちがこの世で生きる為にも、地に川を流して下さっています。

謙遜な祈り

全ての人間に与えられいる、この地に於ける働きの使命とは、①心の荒地と地の荒野を耕して実をみのらせ、②神の創造された全ての環境・空間を管理して、心とこの地を天からの川で潤して繁栄に導き、③全ての生き物、特にサタンと、サタンの治める地を支配する事でした。

★神である主は、人を取り、エデンの園に置き、①そこを耕させ、またそこを守らせた。(創世記2:15)

★神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「②生めよ。ふえよ。地を満たせ。③地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ、(創世記1:28)


その為のお膳立ては、天地創造の六日間で全てが完成しているのです。

★こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。(創世記 2:1-2)




 ★花のライン17休憩
2013年1月29日(火)コチラに続きます。


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