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2013年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年03月

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(2)キリストの岩②「愛の御座」



  イエス様が十字架の苦難をもって
私たちの体を生ける宮として下さり
私たちの心の奥底である「霊の所」に
「キリストの岩」が出来た事を、御言葉から学びました。

私たちは、私たちの信仰の父アブラハムのように
神の御言葉と十字架の贖いを堅固な土台として
永遠にそびえる「神の都」を、
見えてはいなくても
信仰の目で確信して、生きるべきです。

そして本日は、その神の都の真中にある
「神の御座」の土台について、
御言葉から学びたいと思います。






 ライン15
 
(1)「神の御座」

天の父の愛する人間を、神の喜ばれる礼拝の民とする為に、イエス様は十字架の患難を忍ばれ、それ故に、その御名は全宇宙で最も高き名とされ、御父の座の右に着座されました。
※私たちは今、全ての被造物を従わせる事のできる、この最も高き力ある御名をもって、天の父に祈りを捧げています。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ人への手紙2:8-9)

★イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル人への手紙12:2)

★キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(ペテロの第一の手紙3:22)



十字架で流された血と死を通して贖いの御業を完了して、天に上られたイエス様は、御座に着かれて、御父と共に賛美を受けます。

その時、数多くの立場と職名(神のひとり子・王・花婿・万軍の将・羊飼い・大祭司・預言者・癒し主・勝利の主・・・)のイエス様は、「小羊」としての十字架の贖いの御業に対して、栄光と賛美とを受けておられます。

 ★小羊の御座s

★また私(使徒ヨハネ)は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)



 ライン15

(2)「父の心①;アブラハムのモリヤの山での礼拝」

しかし何故、十字架上で実際の痛みも苦しみも体験なされなかった御父も一緒に、栄光と賛美とを受けるのでしょうか?

それを考える前に、私たちの信仰の父「アブラハム」の人生最後で最大の試練「モリヤの山での礼拝」について、見てみましょう。

① これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

②翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。


  ★モリヤの山①-④

③三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
※アブラハムは、自分の一人息子を祭壇のいけにえとして神に捧げると言う「患難とも言うべき試練」を、「礼拝」と言いました。私たちは、普段の時に安逸な信仰生活を送っていますが、試練の時には神さまを激しく求め、そして神さまの御心を求めて切に祈り、そして御声を聞こうとして全身全霊で密接に語り合います。これが真の礼拝であるとアブラハムは捉えました。

十字架上でのイエス様こそが、真の霊的礼拝を捧げましたが、この時のアブラハムも自分以上に大切な一人息子の命を、生きた供え物として捧げる決意で、真の霊的礼拝を捧げていました。

★あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12:1) 


④アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。


⑤ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。

⑥そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」


 ★モリヤの山⑤-⑧  
⑦アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

⑧それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになるあなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。



 ライン15

(3)「父の心②;御父の心」

このモリヤの山の礼拝の場面に於いて、アブラハムは完全に天の父を象徴しています。

天の父は、偶像礼拝の家庭に育ったアブラハムを召し出し、人間側の人類の父と見立てました。ですから、新約聖書の最初の書マタイによる福音書の一章は、イエス様までの系図が、アブラハムから始まっています。アダムでもなく、神の御心にかなっていたノアでもなく、神に喜ばれていて生きたまま天に昇ったエノクでもなく、アブラハムから信仰者の歴史が始まっています。

その系図は、イエス様まで続いており、そのイエス様の十字架の死から、私たちは神の子、神の民として生み出され、アブラハムへの約束にあるとおりに、御子と共に世界を相続するのです。

★そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。(ローマ4:16-17)



天の父が、完璧な秩序(義)を持って天地万物を創造された時、罪が赦される為には、罪の全くない存在の血の贖いしかなく、罪の代償である死から救済される道は、完全に罪のない存在が身代わりに死刑になる他はあり得ませんでした。

全ての天地万物を無から創造され、自ら存在しておられる神が、どんなに愛がなくても、どんなにいいかげんでも被造物は何も言えませんが、私たちの創造主は、完璧に正義を貫き、想像も及ばない程の無限の愛に満ちておられる神です。

天のお父様は、創世の時に被造物に自由意志を与えた以上、人間への愛を全うする為には、最初から御子イエス様の血と死しかないと覚悟なされていたと推測されます。

しかし、その使命を最も愛する一人息子に託すにあたり、理性的に納得してはいても、感情的には非常に辛かったのではないでしょうか。モリヤの山での礼拝は、完全に十字架を象徴しており、しかも、御子を象徴しているイサクではなく、御父を象徴しているアブラハムに完全にスポットライトが当っています。、

  13★モリヤの山

自分自身が十字架の苦しみに遭うよりも、それを見ている父の方がどんなに辛いかを、アブラハムの一人息子イサクを御子イエス様と見立てて、同じ父親としての苦しみを、アブラハムに理解してほしかったのではないでしょうか。そして、アブラハムは、御父の心を知る、神の友と呼ばれました。

★「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙2:23)


天の父の信頼どおり、アブラハムは、神さまからの言葉に従順に従って、イサクを捧げました。

★信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。(ヘブル11:17)

下記の御言葉は、アブラハムの生涯のいくつかの場面にあって、特にモリヤの山では、イサクが死んでも神さまには再び生かせる力があると信じてイサクを屠ろうとした御言葉への従順により、イエス様を信じる私たちをも、信仰によって義とされる道が開かれたのだと読み取れます。

神の側の救いの道は、イエス様の十字架の血と死、御父の御力による復活とで完全に整えられました。しかし、それを人間が信じる事だけによって、得る事が出来るのは、アブラハムの信仰の従順を御父が確認してからの事だと考えられます。

★「彼(アブラハム)の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。(ローマ4:23-24)

意外に感じるかもしれませんが、聖書の教えの根本は、私たちが復活する信仰を持つ事で、それは天の父の力で、それをアブラハムは信じました。

★彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル11:19)

それは、十字架につけられる以前の、イエス様の御父に対する切なる願いと同じでした。

★キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)

アブラハムの生涯は、徹底して「天の父」への尊敬と愛を、私たちに指し示す役割があったのです。私たちは、御子イエス様だけに、尊敬と愛が偏らないようにしましょう。



 ライン15

(4)「父の心③;御子の愛と献身」


聖書六十六巻の中で、黙示録の一章と五章だけに、イエス様が、どのような動機であの苦しい十字架を選択されたかが、記されています。

イエス様は、御父があまりにも人間を愛し、その霊との親しい交わりをどれまで程に願っておられるかを、ずっと知っていました。ですから、神の愛する人間達を、神の子、神の民とする為に、十字架を決断されたのです。

御父を愛する御子イエス様の壮大なヴィジョンは、十字架の贖いを果たして、世界中のあらゆる部族・民族・国語・国民・・・を神の民として御前にずらっと勢ぞろいさせ、「父よ、これがあなたの民です」と紹介して、父を喜ばせる事だったのではないでしょうか。

 神の民2


下記は、今週の冒頭のイラストにある「天の御座の前での礼拝」の賛美です。

★彼ら(四つの生き物と二十四人の長老)は、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9-10)



 ライン15

(5)「御座の土台;御父と御子の愛」

御子を十字架につける最終決定をしたのは、ピラトではなく天の父でした。私たち人間を愛するあまりに、ひとり子のイエス様を私たちに与えると言う辛い選択をしたのです。

御子は御父を愛して十字架の苦難を受け入れ、御父は御子を愛するがあまり、実際に痛み苦しんでいる御子を見ている側の患難を味わいました。

モリヤの山頂での祭壇には、イサクの代わりに雄羊を屠った神さまは、ご自分の息子の時には、代わりを用意しませんでした。

 

アブラハムには、一人息子に自ら手を下すと言う悲しい思いも、苦しい思いもさせませんでしたが、天の父は代わりの雄羊を準備せず、イエス様を屠る決断をしました。

 ★モリヤの山2

アブラハムの刀を止めた天使は、”the Angel of the Lord”とあるので、受肉前のイエス様であるそうです。イエス様もまた、本当の十字架の時には、代わりの雄羊ではなく、ご自分が贖いの小羊として屠られました。やぶに角を引っ掛けていて屠られた雄羊は、イエス様の十字架の贖いの象徴でした。

 身代わりの

神さま父子は、二人で壮絶な患難を通ってまで、私たち人間を愛して下さったのです。

★神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一の手紙4:9-10)

天の御座の土台は、天の父の、想像も及ばない無限の愛と、たった一滴の水も漏らさない完璧な義です。その決して相容れない二つの土台の上に、十字架が立てられて流れ落ちる御子の贖いの血が垂らされて初めて、愛と義が一つに溶け合いました。

そのために御父と御子の味わった壮烈な患難に感謝し、それを私たちを愛するが故に受け入れる決断した心の強さを褒め称えて、全ての被造物は御座を取り囲んで賛美を捧げます。もうひとたび御言葉を通して、下記の御座の周りに、全ての被造物が取り囲んでいる天の礼拝に、心を巡らせましょう。

 ★小羊の御座L
 
★また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)











花のライン47



聖歌392番「神は一人子を」

  ①神は一人子を賜(たも)うほどに
世人(よびと)を愛し給(たも)う  神は愛なり

(くり返し)
ああ  神は愛なり  汚(けが)れ果てし 
我さえ  愛し給(たも)うほ 神は愛なり

強調文②罪をば犯して  神に背(そむ)き
敵対(てきと)う我さえ  なお愛し給う
(くり返し)
  
③罪赦(ゆる)さん為に  我に代わり
イェス君十字架に  死に給えり
(くり返し)
         
④いざ疾(と)く来たりて  神の愛に                  
汝(な)が身(み)を委(ゆだ)ねよ  救わるべし
 ※疾(とく)・・・速く 
(くり返し)  




花のライン47






★花のライン17休憩
2013年3月1日(金)コチラに続きます。
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| Ⅱキリストの岩 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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(1)キリストの岩①私たち生ける宮の「霊」の所の素材は?

 









(1)「神に会いたかった人・ヨブ」 


むかし、ごく短い期間に子供と財産と健康(悪性の腫れ物)を失うという、すさまじい試練の荒野に一気に突入した、ヨブと言う信仰者がいました。

町はずれのゴミ溜場の灰の中に座り込んで、土器のかけらで体中をかきむしっている惨めなヨブの所に、妻や、三人の友人が訪れましたが、何の慰めにもなりませんでした。

 ヨブ1

ヨブはその当時、信仰も行いも神の御前に世界(東方)一正しいと認められた信仰の達人でした。
そんなヨブでさえ、たて続けの試練に遭った時、試練そのものの苦しみもさることながら、自分のように正しい人間に、神が何故試練を与えたのかがわからずに苦しみました。

それで、死んでもいい、行けるものなら神の御座に行き、神が何故これほどまで自分を苦しめるのか、神にその訳を詳しく聞きたい、神と納得できるまで討論したい、「ああ、神に会いたい!」と、切に願いました。(ヨブ記13章、23章)

ヨブは試練の中で座して動かず神を激しく求めていると、突然、主は、嵐の中から怒りをもって現れました。

★「私が近くにいれば、神なのか。遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、私は彼を見る事が出来ないのか。天にも地にも私は満ちているではないか。」エレミヤ23:23-24

信仰者は誰でも、神に会いたいと願います。特に、試練の時には、神さまの存在も、聖書の御言葉も信じられなくなる時がありますので、神に会いたい、見たい、自分に対する約束の言葉を聞きたいと願います。

しかし、神さまは「霊」ですから、見る事はできません。特に旧約聖書の時代には、イエス様がまだ肉体をとって、この世界に降りてきていませんでしたから、見る事はできませんでした。 

主は御霊です。(コリント人への第二の手紙3:17)

※元来霊であるイエス様が約二千年前、受肉されてベツレヘムでお生まになる前の旧約時代には、The Angel(定冠詞のついた御使い)は、受肉前のイエス様だと言われています。“the Angel of the Lord”と記されている事が多いです。

創世記では、荒野に逃げた傷心のハガルに二度(創世記16章・21章)、モリヤの山頂でイサクに刀を振り下ろす直前のアブラハムに、“the Angel of the Lord”として、現れました(創世記22章)。

その他、出エジプト記3:2で、燃え尽きない芝の中でモーセに、その他、士師記2:1-4、5:23、6:11-24、13:3-22、IIサムエル24:16にあります。

ゼカリヤ1章では、イエス様と推測される“the Angel ”は、御父である主“the Lord”と対面して話す場面があり、また“the Angel ”は、その主の言葉を'Thus says the Lord of hosts:"と、預言しています。
3章ではサタンと同席し、12章では、これから訪れる最後の日のイエス様の現れを主の使いと語っています。

その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使い のようになる。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。(ゼカリヤ12:8-9)

★ "In that day the Lord will defend the inhabitants of Jerusalem; the one who is feeble among them in that day shall be like David, and the house of David shall be like God, like the Angel of the Lord before them. "It shall be in that day that I will seek to destroy all the nations that come against
Jerusalem. (ゼカリヤ12:8-9)




 ライン15

(2)「三位一体の神の表れ方」


神さまが人間にご自分を表す方法は二つあって、①一般(自然)啓示と、②特別啓示の二種類です。

ヨブに「天にも地にも私は満ちているではないか」と語った神さまのご自分の啓示の仕方とは①一般(自然)啓示で、私たちが天体望遠鏡で見るマクロの世界も、顕微鏡で見るミクロの世界も、神さまの存在とその力はついて、万民が知る方法です。下記は、新・旧約聖書からの、代表的な御言葉です。

★天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響きわたり、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-4a)

★神について知りうることは、彼ら(不義をもって真理をはばんでいる人々)に明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ人への手紙1:19-20)


②特別啓示の代表的かつ重要なのは、「聖書の御言葉」です。
★神のことばは生きていて、力があり(ヘブル4:12a)
★聖書はすべて、神の霊感によるもの(Ⅱテモテ3:16a)


三位一体の神として天地創造の以前、最初の永遠から存在しておられる御子イエス様(↓この方)は、御言葉の本体です。

★初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネによる福音書1:1-4)

そして、★すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(1:9)神さまであられるイエス様が、クリスマスの日、私たちが見える肉体をとって、この世に降りて来られました。

★ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(宿られた)。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(1:14-14)

ですから、イエス様の言葉と行いの様子が記された四つの福音書と、使徒行伝の最初と黙示録の最初は、私たちが、神さまそのものをはっきり見られる素晴らしいチャンスですので、単なる物語や言葉としてではなく、目を皿のようにして熱心に読みましょう。

★いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

その他、予言者や預言者とか、また御使いなどを通してとか、奇跡的に神さまが直接的に語られる事も特別啓示です。

しかし、自然啓示や特別啓示を見た誰もが、神さまを悟る事はできません。イエス様の十字架後に人類に降ろされた聖霊様が、それを教えてくれます。

ですから、イエス様は祭りの終わりの日、叫びました。

 生ける水の川8

神さまは、大自然と、御言葉と、イエス様と、聖霊様を通して、私たちに力強く語り続けて、その存在を人間に示しておられます。



 ライン15

(3)「主を見た預言者・イザヤ」


旧約時代を代表する預言者のひとりイザヤは、神殿と御座を見ました。BC700年中期頃と推測されています。

★ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。(イザヤ6:1-4)

私たちの住んでいるこの地は、サタンの支配下にあり、ニュースを見ては心が痛み、私たち人間に管理が委ねられている大自然を見回しても汚染に満ち、戦争のうわさや大自然の驚異にさらされている未来を見渡しても希望は見出せないのが現実です。

しかし、イザヤは、神の王座にの栄光が満ちている様を、確信に満ちて叫んでいるセラフィム(神の御座に仕える位の最も高い天使)の様子を伝えています。

 イザヤの見た御座

★イザヤ40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる

使徒ヨハネは、黙示録で天の御国の御座の様子を伝えていますが、イザヤは40章に於いて、私たちの住む地を覆う天幕に主が住んでおられると伝えています。

神の住まい

天地万物をお造りになり、それを維持しておられる神さまは霊ですから、その栄光に溢れる御臨在は、創造された全宇宙空間の全ての所に偏在しておられるのですね。




 ライン15

(4)「神の家を建てる・ソロモン」


ダビデの息子ソロモンは、父の代からの使命である神の住まい「神殿」を完成した時、次のような祈りを捧げました。
 ソロモンの祈り

荒野を四十年間、旅をしていたイスラエルの民の真中に神様が住む為に、モーセと民は、移動式のテント「幕屋」を造ったのですが、民がカナンの地に永住し、エルサレムを都として自分達だけが立派な建造物に住んでいるのは申し訳ないと、神の住まい「神殿」を建て、その至聖所に御座である「契約の箱」を置きました。

しかし、その立派な建造物の中の、神さまの宿る部屋「至聖所」には、とうていではないが、天も、天の天も入れきれる事の出来ない神さまの臨在を、当然に入れる事はできない事を、ソロモンは把握していました。




 ライン15

(5)「神さまの住める家・イエス様」


しかし、私たち生けるの宮の至聖所である「霊の所」は、神さまの霊が宿る事が出来るように、神さまが天地創造の六日目に造って下さった「空間」なので、大きな建造物である神殿の至聖所でさえも入れ切れる事のできなかった神さまの霊を、宿す事が出来ました。

イエス様は、十字架の贖いによって私たちを、私たちを聖霊の宮として下さいました。

天地創造の六日間で全ての「完成」が告げられましたが、イエス様は十字架上で、人類の全ての罪を贖って、「完了」を告げられ(ヨハネ19:30)、あらかじめ霊の器として完成されていた人間の霊の所を、聖霊が宿る聖い宮として下さったのです。

★「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり,あなたがたは,もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント人への第一の手紙6:19-20)

イエス様が私たち信仰者を聖い宮として下さったのは、天の父の為に「いこいの場・安息の家」を提供してさしあげたかったからです。そして、人間なら誰でも良いと言うのではなく、天の父の願いは、「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」です。

★主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:1-2)

私たちがサタンの性質である「高慢」を持ったまま、心の中の礼拝堂で天の父を礼拝する事はできません。御父の語られた御言葉を最も大切なものとして従い、悔いし、砕けた魂で十字架の御許にひざまずく礼拝者の出現を、御父は待っておられます。

ソロモンの大きな神殿にも、天にも、天の天にも入る事のできない神さまの存在を、私たちの心の奥底にある霊のところに住めるようになさったのは、十字架の贖いの功績です。

その代価を支払われた瞬間は、イエス様が最後の息を引き取られた時です。



 ライン15

(6)「救いの岩」


その時に初めて、神を信じる私たちの心の奥底にイエス様が宿り、天国(至聖所)にある神の御座が、そこにあるがごとく私たちは生きられるようになりました。

日本に生きる私たちは、いつ大地震が起こるのかと不安の中で生きていますが、私たちが永遠に住む神の都はの土台は、「永遠に変る事のない御言葉であり、そこに住む事を可能にして下さったイエス様の十字架の御業」です。

私たちの人間側の信仰の父「アブラハム」は、神さまの御声を聞き、御言葉に従っていましたが、神さまも、御座も見た事がないのに、この堅い土台に建つ天国の都を確信していました。

 堅き土台の都

今の時代も、旧約の時代も、神の御座を見たり、イエス様に会ったり、神の栄光に照らされた信仰者が稀にいます。しかし、私たちの信仰の父アブラハムは、神さまに出会わずして、その御座を見ずして、岩よりの堅い土台に建つ神の都を確信し、その信仰のゆえに、神さまに賞賛されました。

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル人への手紙11:8-10)

旧約聖書の時代の信仰者たちは、神の存在を岩と認識していましたが、特にダビデは、サウル王に命を狙われて荒野をにげまっわっている不安の日々、「主は救いの岩」と確信して告白し続け、賛美し続けました。

 主は我が岩

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31)


私たちの心の奥底にある「救いの岩」を、信仰の目で確認する私たちとなりたいと思います。

★「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネによる福音書20:29)




 ライン15

(7)「岩の上に信仰の家を建てる」



イエス様は、私たちに向かい、この岩の上に人生の家の土台を置くように言われました。

★わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイによる福音書7:24-27)


 岩の上に家を建てた人


イエス様は、一夜にして景色が変わってしまう砂漠の砂のように移ろいやすい「感情の砂」の上にではなく、しっかりと踏み固めたつもりの私たちの「意志の土」の上にではなく、心の土を掘って、心の奥底の霊の所に宿ったキリストの岩の上に直接、信仰の家を建てるようにと勧めています。

★わたしのもとに来て、わたしのことばを聞きそれを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。(ルカによる福音書6:47-48) 

私たちは、自分の信仰に信頼するのではなく、イエス様の岩に信頼を置く事に心を決めましょう。
実際には、御座の土台である「聖書の御言葉」「十字架の御業に、立ち続ける事です。


★志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ26:3-4) 



御一緒に、信仰を込めて、心からの賛美を捧げましょう。

 イエスこそ岩なれ



①望みは唯(ただ)主の  血と義にあるのみ
  如何(いか)でか他のもの  頼りとなすべき   
※如何でか・・・どうして(・・・することがあろうか)

 (くり返し) 
イェスこそ岩なれ 堅固(けんご)なる岩なれ
      他(ほか)は砂地(すなじ)なり

②御顔を見ぬ日も  恵みの手はあり
  波風何かは  錨(いかり)のある身に  
※何かは・・・なんということはない?
 (くり返し)

③御(み)誓い頼めば  大水も恐れじ  
※御誓い・・・人を救うとの神の誓い?
  もの皆消ゆとも  望みは主にあり
 (くり返し)

④ラッパの音(ね)響(ひび)く日  
義の衣(きぬ)纏(まと)いて
恐れず御前に  この身は立つをえん
 (くり返し)











 エンディング他印3




★花のライン17休憩
2013年2月22日(金)コチラに続きます。

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(6)「心は土」

今日は、私たち生ける教会のそれぞれの部分が何で出来ているのか?
その素材について、考えて行きたいと思います。

体は、神さまが天地創造の六日目に「土地のちり」を原料として造りました。
ですから、体の素材は土と言うことで明白です。
では、心(魂)と、霊の素材は何でしょうか?

生きている教会

先ず今日は、心の素材を見て行きたいと思います。




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「御言葉の種が蒔かれる畑」

私たちの心は、御言葉の種が蒔かれる畑です。
御言葉の種


イエス様は大勢の群集に向かい、「たとえ話」をされました。

★イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばた に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13:3-9)


 四つの地に落ちた種




このたとえ話の意味を、イエス様ご自身が解説しています。

★「御国のことばを聞いても悟らないと
悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。
chapter4★
道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。


また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
岩地に落ちた2種
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、
みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。


また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、
茨で覆われる
この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、
実を結ばない人のことです。


ところが、良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いてそれを悟る人のことで、
良い畑
その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
(マタイによる福音書13:19-23)





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「父は私たちの心の畑を耕す農夫です」
 

天の父は、私たちの心の畑にイエス様の種である、御言葉の種を蒔きます。しかし、私たちの畑は柔らかく耕されておらず、地表と地中に岩のように頑固で大きい石が点々とあるし、様々な思い煩いや、世の楽しみ、めとったり嫁いたりに夢中になるなど、世に付く思いが心の表面を覆っていて天からの光を遮(さえぎ)っており、心に豊かな実を結ぶ事ができていません。

ですから、農夫である天の父は、環境を変えたり、周囲の人を使って、私たちの心の土を耕します。それが試練と言うもので、心や、体や、自分を取り巻く環境に痛いのですが、仕方がありません。

 j心の畑の開墾

なぜならば、天地万物を創造され、その御力をもって全てを維持しておられる神さまにとって、絶対に勝てないものが、ひとつだけがあるからです。それは人間の頑強な「自我」です。

その例が、創世記のヤコブです。・・・下記は、神の使いが、夜明けまで全力でヤコブと相撲(すもう)をとって、勝てなかったと言う場面です。そこで神の使いはヤコブのもものつがいを打ち、ヤコブはやっと自我が砕かれて神の御前に謙り、祝福を受けました。

 ヤボクの渡し

これ程までに、人間の傲慢は強かったので、神につるはしを振り上げられて打たれた時に初めて、ヤコブの心の畑の土の中にある自我の岩が砕かれた結果、この後の人生に於いて子孫は繁栄し、百倍では収まらない豊かな実をむすびました。

★「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネによる福音書15:1-2)





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「自由意志の目的」

ヤコブに代表される、神さまの御使いも戦って勝てないほどの、私たち信仰者の強い自我は、いったい何時から人間の心にあるのでしょうか?

それは、アダムとエバがサタンに騙されて「善悪を知る知識の木の実」を食べた時からです。

しかし何故、この神さまも勝てないような頑強な「自我」を生み出した「善悪を知る知識の実」を、アダムたちは食べてしまったのでしょうか?

それは、神さまが最初の人間であるアダムにも、御使いにも、全ての被造物を創造する時に「自由意志」を与えた事に原因があります。

御使いの三分の一は、神さまに反逆してサタンになったそうですが、その砕かれていない自我がもたらす最悪のリスクを負ってまで、神さまが被造物に自由意志を与えたのは、私たち人間と、真の純粋な愛で愛し合う事を願われたからです。

人間の行動面だけでなく、心の奥底までをご存知の、人間を造られた張本人である神さまが、強制的で表面的な礼拝で満足されるような鈍感なお方ではないからです。奴隷や兵隊のような気持ちで仕方なく礼拝を捧げる人間や、ロボットのように心に愛もないのに神さまに仕える天使がどんなに多くいても、神さまには何の喜びももたらしません。

被造物が、あらゆる選択肢が可能な中から、神との交流(礼拝)を最上の喜びと把握できない限り、神様は礼拝を喜ぶ事はできないからです。まことの礼拝のもたらす、心が溶けてしまうほどの歓喜を、互いに味わい合いたいが為に自由意志を与えました。

天の父が、私たちを創造した以上、そして自由意志を与えた以上、私たちに目的があります。
せっかく涙をのんで、試練と訓練の荒野に人類を下したのに、地上での命を終えて天国に戻って来る時に、私たちがエデンの園でのアダムのように、無知なままでは戻って来てほしくはありません。

アダムとエバは、聖かったのですが、幼かったのでサタンに騙されてしまいました。今度、天国に私たちが戻って来る時には、イエス様の身の丈(ガラテヤ2:20)にまで成長して、神さまの御心を知る大人となって、豊かな愛の交流が出来る事を、天の父は楽しみに待っておられます。

天国3

私たち人間が成長してイエス様の霊性(性質)を得、サタンに打ち勝ち、神様が人を造られた目的「真の礼拝者となる事」を果たして天国に帰る為に、先ずは私たちの心が耕される事が重要である事を学んで来ました。


罪を犯し、失敗を重ねて神さまに打たれた結果、やっと真の礼拝者の道を歩み始めるのが、私たち人間の常ですが・・・、

・・・神さまに打たれる前に、御言葉に従順して自ら悔い改め、粉々になるまでに自分の心の畑を耕して謙(へりくだ)り、真の礼拝者となって天の父を喜ばす事の出来る人がいたら、その人は稀に見る賢い人です。



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「実はまず心にみのります」


いずれにしても・・・、砕かれた心の畑に、天の御座から出る命の川から、私たちの心の奥底「霊の所」を井戸として水が流れて来ると、先ず私たちの心の中に御霊の実が豊かにみのります。

 御霊の実 ぶどうの枝

私たち人間は信仰者であっても、互いに自分たちの価値観で、目に見える外側の立派な実しか「実」として認めない傾向があります。それが、パリサイ人の宗教的礼拝や、カルト宗教に繋がる危険な考え方です。

しかし神さまは、外側に現れるものが、天から来ているか、人間の心のレベルから来ているのかを重要視されます。私たちの善が、何を動機とし、何処から力が出ているかが神さまの判断の絶対的な基準です。

★「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記上16:7)





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「毒麦も育ちます」


神さまの目から見ると、イエス様を通して心から生み出された実しか良い実として認識されずに、最後の審判の日、サタンの影響を受けた心の思いから出た善の実は毒麦として束ねられ、燃やされてしまいます。

★イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。・・・収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイによる福音書13:24-25.30) 

 毒麦のたとえ

ですから、一見、人間の善では良いように見えて(パラダイム)も、その実はいまわしく、神の善(パラドックス)から出る命の水で実を結ばないかぎり、私たちが信仰者であっても人生の存在価値(神さまの基準で見た良い評価と、それに対する永遠の中での大きな報いを得るチャンス)を喪失してしまいます。

クリスチャンに大きな勘違いが二つあります。

一つは、私たち信仰者の心の畑に、一本も毒麦がないと過信する事で・・・、もう一つは、私たちの心根にサタンの埋め込んだDNA「知識の木の実」があるのに、影響されていないとの信じて疑っていない事です。

イエス様のご生涯だけが、100%良い麦しかみのらなかったし・・・、善悪を知る知識の木の実を食べなかった存在はこの世に生まれた人の中に、イエス様しかいませんでした。

★「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)

私たちは、最後の審判の日、イエス様の再臨の日、自分の生涯の実でイエス様から来ないもの、命の木から来ないものは、どんなに肉の目から見て善に見えても、焼かれてしまいます。

★あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイによる福音書7:16-19)

私たちが、救いに関して、癒しに関して、様々な教会活動に関して、外に実を結ばせて下さるのは神さまの御業です。霊である神様の、手足となって働く私たちは、天と地を結ぶ管に過ぎませんが・・・、

一旦、何らかの実を見ると高慢になってしまい、その後は、自分の考えや実力で神さまの使命を果たそうとなりがちで、それがサタンの策略である事に気づき難いのです。パリサイ人もそれで失敗していましたが、自分が知識の木の実を食べ続けていても、気付く事がありませんでした。

★わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

私も若い頃には、イエス様がパリサイ人を叱責している場面を読む時、他人事として何らの心の痛みも感じませんでした。しかし、年を取るに連れて、知識の木の実である自己義が一人歩きし、他人を裁き、高慢になってイエス様の側からいつの間にか離れている自分を発見しました。私こそ、パリサイ人だと・・・。

私たちは、一度イエス様を信じて、その段階で留まって満足していては危険です。私たちは、イエス様を信じたら一生、イエス様から一瞬も離れず、イエス様の与えて下さる天国からの生ける水を飲み続けていましょう。

★「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(15:4)



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「人間の心を変える二つの方法」


天の神さまが、私たち人間に御言葉を与え、理解できるように聖霊を遣わせて下さっていますが、この自由意志がある限り強制は出来ないので、下記の二つの方法を通してしか人間に介入し、人間の意志を変え、御言葉に従順させる方法はありません。

①環境から働きかけて、心を動かす。
②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。


①環境から働きかけて、心を動かす。
 
ですから、私たちはどんなに苦しい試練を味わったとしても、御言葉の正しさと素晴らしさを知ったのなら、自ら心の一新によって、心の土を砕いて柔らかくし、御言葉を受け入れ、悟り、実行する事が大切です。

神さまからいただいた主要な御言葉には、報い(警告)が必ずついていました。先ほどのヤコブも、そして殆どの旧約聖書の信仰者(アダム・アブラハム・イサク・ヨセフ・モーセ・ヨナ・ダビデ・・・)は、それを事前には悟れず、不従順の罪を犯し、その実を刈り取って初めて神の言葉の正しさを知り、御言葉への従順の必要を深く学びました。

イエス様は、放蕩息子のたとえ話を通して、その聖書の基本的な真理を語っています。

放蕩息子が知識の木の実の結果である「自由意志による傲慢」で父の家を出て行く時、父はその後ろ姿を見送る他はありませんでした。しかし、天の父は、環境を変えて「悔い改め」を迫ります。ですから私たちに試練がある時、自分の心に御言葉に逆らっている所を、聖霊様に指摘してただく必要があります。

どんな大きな罪・汚れがあったとしても、どんなに神さまの御前に突っ張って我ままを通していたとしても、私たちが悔い改めた時、イエス様の十字架の贖いによって、私たちは再び天の父の大きく広げられた腕の中に抱かれ、父の家に永遠に住む事が出来るのです。本当に感謝な事です。

 放蕩息子6

http://www.ebibleteacher.com/chalmers/prodigal.html 
 
Sunday School⇒Children's Lessons⇒下方The Prodigal Son   


 
私たちがこの世の荒野で失敗しつつも、神さまの御言葉の真実を、少しづつ、一つづつ知る時、心の中に、霊から沸き上がる喜びと、天国の平安が体験できます。
★苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇 119:71 )


②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。
 
そして、私たち信仰者の祭司としてのとりなしの祈りが、イエス様の再臨を迎えようとしている今の時代にあっては非常に重要です。

イエス様が天に帰ってから二千年近く経つ間、神様は世の人の自由意志を尊重してじっと忍耐をして待っておられました。しかし、悔い改めて神に立ち返る人は極めて少ないので、最後の手段として、天変地異をもって大きく環境を変えて人類に迫って来るからです。

 終わりの日の前兆

今ほど、天の父が私たちの祈りを必要としている時代はありません。

是非、私たちの心が自ら悔い改めて砕かれ、柔らかい粘土のように練りきよめられ、天の父の願うままに麗しき土の器と作り変えていただきたいと思います。

私たちが完全に大人となって、イエス様のように親孝行な者となり、父の願いである「全ての世の人々が『神の子、神の民』となり、天の御国に私たちと一緒に帰れるように」と、ただひたすら謙遜に祈ってゆきましょう。


英語での賛美ですが、一緒に礼拝に参加し、「私たちの心を、父の御心にかなう姿に練り上げて下さい」との真心からの願いを込めて、共に賛美を捧げましょう。




聖歌295番 「成したまえ なが旨」

 
① なしたまえ ながむね すえつくり 我が主よ 我はただ なが手の 内にある土くれ
② 降る雪の ごとくに 我が内を 白くし ながむねの まにまに 練りたまえ 我が主よ
③ 天(あま)下る 火をもて 我が内を きよくし なしたまえ なが手の 器なる我が身と
④ ながむねの なるとき 他の人は見るべし 我が内に ます君 キリストの姿を 
すえつくり=陶器師




3ライン


土の器

★しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ64:8)



エンディング





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(5)「善の実」に関するウオッチマン・ニーの見解

前回のテーマ、神の「善」と、
人間の考える「善」との違いがわからずにいた時・・・、

十年程前だったでしょうか、
ウオッチマン・ニー著の「キリスト者の行程」、
「キリスト者の標準」、「霊の開放」
「勝利を得る命」などを読み、

なんとなくキリストの命で生きる事の
実態がつかめて来ました。

今日は、その中で「キリスト者の行程」より、
残っていたメモの中から、

「命の木の実(パラドックス)」で生きる事と
「善悪を知る知識の木(パラダイム)」で生きる事の
違いを知る参考になればと思い、

それに関連した部分を
断片的ではありますが、そのまま載せます。

二つのカウンセリングの実例が取り上げられていました。



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カウンセリングの実例Ⅰ「妻の不倫に悩む牧師」

ある牧師の旅行中に、親友が妻と不倫をして駆け落ちした。
彼は妻と二人の子供と親友を一時に失った。

 不倫した妻に悩む牧師 

「私は妻と友人を赦さなければと毎日思うのだが、毎日失敗する。
彼らを愛さなければと思っても愛せない。私はどうすれば良いのか。」
と聞かれたので「あなたは何もしなくても良い。」と答えた。

すると「では、憎しみ続けていて良いのですか」と驚かれた。


☆彼への説明;問題解決は次の点にある。イエスキリストが十字架につけられた時、彼は単にあなたの罪を取り去られただけでなく、あなた自身をも取り去られた。

☆だから、あなたの古き人も十字架につけられた。だから人を憎み、赦す事のできない、愛す事のできない「あなた」は、十字架にかけられて取り去られたのである。既に約二千年前に。神は私たちの全てを十字架上で処理された。だから、あなたが処理すべき事は何一つ残っていない。

☆だからこう言えばよいだけ。「主よ、私は赦す事も愛す事もできないので、もう努力はしません。ですからそうではなく、それらをあなたが私たちの内になしてくださる事を確信してあなたにお委ねします。あなたが私の代わりに、妻と友人を赦し、愛す事を信じます。このことをあなたが私の内に成し遂げて下さると信じます。」と・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※私;福田がこれを初めて体験した時のお話しをしたいと思います。

結婚した主人の母(姑)は、たいそう几帳面な性格で、非常に真面目な人でした。
私は、逆に大雑把な性格なので、いわゆる「嫁姑の確執」が、結婚当初からなかったわけではありません。

ですが、孫が生まれると母は孫に会いたさに年に数度上京し、そのたびに数ヶ月間、我が家に滞在するようになりました。

私は母に心底からの愛情を感じる事は無理でしたが、愛する主人の大切な母なので、母の滞在期間は、努力に努力を重ねて母を精一杯もてなしました。母も出来る限り私の性格には忍耐して、食器洗いや掃除を手伝ってくれたり、一緒にテレビを見たり、土曜には一家でドライブやショッピングに出かけたりして、それなりに楽しい週日を過ごせていました。

しかし、土曜日の夕ご飯を終えると母は急に暗く寡黙になってしまい、日曜日の朝になると別人のように顔色が悪くなっている母をひとり残して、教会の礼拝に出かけるのが辛い時となるのが恒例となりました。

何かにつけて、「主人が天国に行った時にお母さんがいなかったら悲しむから、イエス様を信じて一緒に天国に行きましょう」と、教会に誘いました。

しかし母は、「私は罪(行動ではなく心の罪だと思います)をたくさんおかして来たから、天国には行けると思っていません。地獄で結構です。」と、頑強に拒否し続けるので、「ああ、世界中の人がイエス様を信じても、母は無理なのかも・・・」と絶望していました。

・・・しかしそんな日々が二十年以上続いたある日、母が久しぶりに我が家に遊びに来た時、私の中に予想もしていなかった出来事が起こりました。

迎えに行った主人の車から降りた母を一目見た瞬間、私の心の中に母を愛する愛が突然に沸きあがってきて、母を抱き上げて、頭を撫でてあげたいほどに可愛らしく見えました。

これが、私が長年信仰生活をしていて初めて体験した「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるの…(ガラテヤ2;20)」…です。私には母を本心からは愛す事ができなかったのに、私の心の内に住むイエス様ご自身がその圧倒的な愛で、母を愛して下さったのです。

それから初めての日曜日の朝、私たち夫婦が二階から降りて来ると、そこにはすっかり綺麗にお化粧し、お出かけのスーツを着、ハンドバックを持ってソファーにキチンと座っている母がいました。そして、「今日から、私もみんなと一緒に教会に連れていって下さい」と言ったのです。

母の心の奥底にも、私の内に愛が沸き上がった時に、聖霊様が触れて下さったのだと思います。

その日、母と一緒に教会の礼拝に向かう車の中は、まるで天国の御使いたちの喜びが降って来たかのように、喜びでキラキラと輝いていました。

★「あなたがたに言いますが、それ(羊飼いが迷える一匹の小羊を見つけ出した時)と同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

それから間もなくして、母は病気で召されました。しかし、母の葬儀が教会でできるなんてずっと諦めていたので、教会での葬儀の間、私たち夫婦は、まるで夢の中にいるかのように幸せでした。

賛美歌を覚えるまでには長く教会生活が出来なかった母の為に、「故人の愛唱した賛美歌」の代わりに、「ふるさと(うさぎ追いしいかの山)」を、親戚中で歌う中で、母は本当の故郷「天国」へ帰って行きました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


☆もしあなたが、おぼれかかっている人を助けようとする時、その人を殴って気絶させてから救助するか、彼がもがき叫んで力が尽きてしまうのを待って救助するかの二つに一つ。もし彼の力が残っている内に助けようとするのであれば、彼が恐怖のあまりあなたにすがりつき、二人ともおぼれ死ぬ。

☆神もまた私たちを助けようとする時、私たちの力が尽きる事を待っておられる。私たちが何もしなくなるやいなや、神は全ての事をなさる。神は、私たちが絶望するのを待っておられる。








 カウンセリングの実例Ⅱ「南中国の段々畑の農夫の話」

日本にも段々畑がありますが、
中国には大規模な段々畑が多くあるそうです。
そんな段々畑を所有しているクリスチャンの農夫が
干ばつになった時に出会った問題です。


 段々畑

干ばつの時に、その兄弟が水車で水を
小川から苦労してくみ上げて田に引き入れたが、
その下の田の持ち主が夜に土手を壊して
自分の田に入れてしまう。

土手を直して新たに水を入れるがまた、
水を取られてしまう。それが3、4回続いた。

「私は忍耐強くあろうと努力し、
仕返しをしないように努めているが、
私の態度は正しいでしょうか」と、相談を受けたので、

あるクリスチャンは祈った後にこう答えた。
「もし正しい事をしようとして努めているだけであったら、
私たちは非常に哀れなクリスチャンである。
私たちは正しい事以上の何かをしなければならない。」

・・・それを聞いた農夫は感銘を受け、
翌朝、彼は低い所にある隣人の二つの田に先に水をいれ、
午後に自分の田に水を入れた。

 段々畑の農夫

すると自分の田の水はそのまま残った。

・・・この行動を見た隣人がその理由を聞いた時、彼はクリスチャンになった。



☆だから主にある兄弟たちよ。あなた自身の正義(善の実の結果)の上に立たないで下さい。あなたが1マイル行き、もう1マイル行ったからと言って、何か正しい事でもしたかのように思わないで下さい。原則は私たちがキリストにならうと言う事である。

★「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(口語訳;マタイ5:41-44;山上の垂訓)

☆私たちは、守るものも要求するものも持ってはいない。ただ与えるべきものを持っているだけ

☆主イエスが十字架上で死なれたのは、私たちのいわゆる「正義」を擁護するためではなかった。主イエスが十字架で死なれたのは、恵みであった。だから私たちは彼の子として、常に他の人々に、彼らが当然受くべき以上のものを与えようとしている。

☆私たちは、自分が正しくない事が、失敗する事がしばしばある事をおぼえなければならない。その失敗から教訓を学ぶ事―――失敗があればすぐに告白し、喜んで必要以上の償いをすることーーーは、良い事。

☆何故なら、私たちが「天にいますあなたがたの父の子となるため」マタイ5:45

☆問題は、事実上の子たる身分である。

★「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」エペソ1:5


★「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」エペソ5:1-2

☆山上の垂訓は私たちがなり得ないほどの高い水準を揚げている。パウロはそれを裏書きしている。私たちの生まれつきの性質の中には、「聖徒にふさわしく歩む」エペソ5:3に到達する手段を見出せない。

☆ではどの様にすればよいか。・・・・秘訣;「私たちの内に働く力」エペソ3:20により苦悩しながら努力している」コロサイ1:29

☆クリスチャン生活の隠れた力は何処から来るか;キリストのうちに安息する事から来る。キリストに神が与えられた地位から力が来る。そこに座する者は歩く事ができる・

☆私たちは、人の前に絶えず歩むために、永久にキリストと共に座する。動力で動くいざリ車に乗ったいざリを想像する;彼は座っているだけだけれど、前進している。・・・

★「信仰によってキリストがあなた方のうちに住み」エペソ3:17

★「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」エペソ2:10


☆「愛を下さい」と祈る時、それを得る事は難しい。愛を祈り求めた事は間違ってはいないが、愛をそれ自体として求めた点に於いて間違っている。

※今から四十年ほど前、関東では東京12チャンネルで「レックスパンバード・アワー」のタイトルだったでしょうか、アメリカの伝道者家族によるテレビ伝道番組の放映が何年間かありました。

番組のプレゼントとして「癒し」についての小冊子が送られて来た覚えがあります。

あまり記憶がはっきりしませんが、たしかその本に、当時の日本と韓国の聖霊派の主流であった「病気の癒し」そのものを祈り求め、それを証する風潮とは違う教えが書かれていて驚き、感銘を受けた事を思い出します。

「私たちクリスチャンが、病気の癒しを熱心に祈り求める時、『癒し』そのものだけを取り出して求めるのは間違えている。我々は、『癒し』ではなく、『癒し主』を求めるべきだ」と…。

正直、当時の私たち聖霊派の傾向は、癒し・家族や友人の救い・富・良い学歴・商売や事業の成功・・・の様々な問題点の為に、命令する祈りを試みたり、断食したり、徹夜したり、祈祷院に篭って熱心に祈り、それがきかれた時に神に感謝し、人々に証をして集結するのが常でした。

もちろん、神さまの力の現れ、聖霊様の御業ですから、素晴らしい事です。
人々の、特に一般人の病気の癒しの為に祈る事は、イエス様もなさっていた大切な務めです。

しかし、クリスチャンである私たちに、何かの問題の解決に対する緊急の願いがある時、その事自体を求めることではなく、全ての面に於ける救いと祝福を包括されている「救い主イエス様ご自身」を求めるきっかけとして、神さまが試練を与えられたと把握すべきであったと思います。

私たちは、この世の幸せとされる様々な状態よりも、「主ご自身を知り、共にすごし、真の礼拝の中で霊魂が喜びで輝き、神のご性質に与って似る者となる…」と言う桁外れに大きな祝福を最上のものとして、最も強く求めるべきです。

まさに、神さまが私たちに与えようとしている祝福は、神の栄光に輝くいのちであって、私たちが熱心に願うものは、それに添えて与えられる世のものである場合が多いからです。

私;福田は、そのイエス様そのものよりは、そして神さまの祈ってほしい人々の救いの祈りよりは、先ず、添えて与えられるイエス様の内側の宝を別々に求めて来た為に、その個々の祈りが応えられる事があっても、イエス様のご性質(愛・喜び・平安・寛容・慈愛・誠実・柔和・自制…、そして聖さと謙遜さ)に与る事が出来なかった(遅かった)ように思います。



★「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が全て(愛、平安、健康、聖・・・・)隠されているのです。」コロ2:3

☆神がみずから愛に迫られてあなたの内になしたもう事を、自分の生来の決心の力によって成すために、神の賜物を用いてみようとした点に於いて誤っていた。

☆十字架の力は、私たちの古い性質から出る全てのものを死と墓に運び去るに十分な力を持っている。そして私たちの責任は、これらのものに対して戦う事ではなく、キリストに信頼し、十字架の御業がなされるのを許す事。

☆もう一度、キリストにある私たちの安息の地位を思い出し、そこに立ち、そして「全てのものを捨て去る」

☆神は私たちにキリストを与えておられる。私たちにとってキリスト以外に受けるものは何もない。聖霊は、私たちにキリストを生じさせるために送られている。キリストから離れたもの、キリスト以外のものを生じさせるためではない。

★「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」Ⅰコリント1:30

☆私が必要を感じている時、キリストを自分と別な人格と考え、自分が強く欠乏を感じている「もの」と同一視する事をしなかった。私たちが願う「もの」は空しい。願う「もの」をキリストと無関係に考える時、それらの「もの」は死んでいる。







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その他のメモ

☆アダムが「善悪を知る知識の木の実」を採って食べた日以来、人間は何が善で何が悪かを決定する事に従事してきた。

キリストは命の木であり、私たちはクリスチャンになった時に、命の木から出発すべきで、道徳的な正・不正から始めるべきではない。私たちにとっての問題の全ては「命」である。

☆私たちが、自分が正しくあろうと努力し、他人にも正しくあれと要求した事ほどに、私たちのクリスチャンとしての証しに大きな害を与えたものはない。

☆私たちは、自分が正当的に扱われているか、それとも不当に扱われているかに関心がある。自分を擁護するために、自問自答する。しかしそれらは私たちの標準ではない。私たちの問題とすべき事とは「十字架を負う」事です。

☆「誰かが私の頬を打つのは正しい事でしょうか。」と尋ねる。もちろんそれは正しくない。(先ほどの駆け落ちした友人と妻の行為は正しくなく、牧師には正しかった。)しかし問題は、「あなたはただ単に正しくある事を欲しているのですか。」と言う事。

☆私達信仰者としての生活の標準は、決して「正しいか間違っているか」ではなく、十字架が私たちの生活の標準。十字架の原理は私達の行動の原理である。良い者の上にも、悪しき者の上にも太陽を上らせたもう神を褒め称えよう。・・・神にとってそれは、ご自分の恵みの問題であり、正しいか正しくないかの問題ではない。私達もまた、それが私達の標準でなければならない。

☆正しいか正しくないかと言う事は、異邦人と取税人が原則にするもの(善悪を知る木の実を食べた結果)。しかし、私たちの人生は、十字架の原則、神の完全の原則によって支配されるべき。(命の木の実を食べ続けてゆく)しかし、私たちの人生は、十字架の原則、神の完全の原則によって支配されるべき。

★「それだから、あなた方の天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい。」 マタイ2:48




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★花のライン17休憩
2013年2月8日(金)コチラに続きます。

 

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