FC2ブログ

2013年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年07月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(4)幕屋(三)パンの机[3]「裂かれたパン⑤割礼の奥義」

1★十字架のライン


裂かれたパン⑤「割礼の奥義」  
・・・聖書全編が語る「パンが真二つに裂かれる事の奥義」・・・


先週は、アブラハムの長い生涯の中での実の刈り取りを通して、御言葉を完全に守るまでに成長した経過をざっと見ました。

創世記十五章でアブラハムは、大きな動物は命令通りに裂いたものの、小さな山鳩は自分の考え(思弁)で裂きませんでした。

 531び4

 Moving-picture-blue-down-arrow-animated-gif.gif

①しかし、その細部まで完全に御言葉を守らなかった事により子孫が四百年間も他国で奴隷となると言う罰を受けたアブラハムは、「割礼」の指示を受けた時に、成人のイスラエルの男子ほ全員はもとより、愛する息子13才のイシュマエルや、生後八日目の新生児、乳児、子供たち、同国人ではない僕たちにも、体のほんの一部とは言え、大きな痛みを伴う「割礼」を、躊躇なく実行しました。創世記の15章で動物を裂いた時のように、聞くのが辛い泣き叫ぶ声が響き渡った事でしょう。

それでもアブラハムは人間の一時的で表面的な善(優しい心;善悪を知る木の実;自分の考える善)で、乳児や子供たちに痛みを与える事を躊躇せず、永遠の中での神の圧倒的な善(いのちの木の実:神の言葉)を勇敢に選択しました。神の言葉を恐れて尊重し、すぐさまその日のうちに完全に実施しました。

 628の6
http://www.ucg.org/biblical-personalities/blessings-abraham-part-3-abrahams-conflict-between-isaac-and-ishmael/

 Moving-picture-blue-down-arrow-animated-gif.gif

②命に別状のない体のホンの一部分ばかりか、人生最後の使命のモリヤの山頂では、自分が死ぬよりもはるかに辛い、一人息子イサクの命を本気で屠ろうとしました。

 ★モリヤの山

 Moving-picture-blue-down-arrow-animated-gif.gif

このパンを裂く二つ(①肉体の一部を裂く②体全体の命を裂く)の様が、聖書全般を貫く最も重要な教え「一粒の麦の死」のより深い解釈に繋がります。ゆくゆくは、我子を十字架でいけにえとする覚悟をなさっていた天の父の心を理解するに至ると言う重要な使命を果たしました。

尊い体の殉教者の存在には及びませんが、まだ生きている私たち信仰者が、自分の魂の命を死なせる時、その天の神の父子が患難を通して裂かれたパンの祝福を、この地の計り知れない多くの人々に通す通路となるのです。

 再臨前の大収穫










ライン15
《5》「割礼の奥義」 


・・・・・(1)真の霊的礼拝・・・・・

当ブログの当初からの目的は、私;福田が、長い年月の信仰生活で、生ける宮としての三部分(霊・魂・体)に対する認識が薄くて実際生活に御言葉を適用できなかった体験から、それらを説明したいが為に、「心のチャペル(礼拝堂)」を書き始めました。

イエス様は十字架上で天から降って来たパンとして、この三部分を全て裂きました。
①体を裂く・・・傷(血)と死
②心を裂く(ゲッセマネの園で、苦悩のあまり血のような汗)
③霊が、弟子達からも父なる神からも引き裂かれた(民の罪を背負ったアザゼルの羊として生ける地から絶たれた)

その、全てが裂かれた証拠として、象徴として、神殿の垂幕が上から真二つに裂かれました。

私はペンテコステ派に育ちましたので、霊的礼拝とは、聖霊の臨在の溢れる中で賛美したり、聖霊の導きの中でメッセージに応答したり、異言で熱心に祈ったりする事であるとずっと把握していました。

しかしパウロは、霊的礼拝を定義しています。

★ローマ12:1 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

イエス様こそが十字架上で、御自分の全てを生きた供え物として捧げ尽くし、真の霊的礼拝を捧げました。

 628mp1

イエス様は、罪を犯して永遠に神なき暗黒の中に落とされるべき私たちの身代わりとなって、神なき世界に一人とされました。ですから信仰者へ、どんなに辛い時でも見捨てられて孤児となる事はありません。

★マタイ1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」1:22 このすべての出来事は、主が※預言者を通して言われた事が成就するためであった。1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 

※イザヤ 7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。


「共におられる主」・・・これが、旧約時代、新約時代を貫いて永遠に信仰者に与えられている約束です。

★ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。・・・その方はあなたがたとともに住みあなたがたのうちにおられるからです。14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

ですから、イエス様の十字架の苦しみと、私たち信仰者の殉教死とは根本的に大きく違います。

 628の2

★使徒 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

イエス様は、十字架上で一人ぼっちでしたが、私たちがもしも殉教する時には決して一人ぼっちではなく、ステパノのように体に痛みはあるのかもしれませんが、それ以上に霊魂が、天から送られてくる聖霊の圧倒的な臨在で喜びに輝きます。天の父も見つめ、イエス様も見つめ、心にはインマヌエルの聖霊が満ちるのです。

イエス様の十字架(裂かれた霊・魂・体)は贖いで、この世に救いをもたらしますが、私たち人間の心と体の殉教は贖いではなく、イエス様の十字架と復活がもたらせた永遠の命を、世に流す通路となります。自由意志を与えられいて全てを選択できる立場にある人間が、最も崇高な御言葉を尊重した事を天の父が喜んで下さるからです。






・・・・・(2)旧約時代の「割礼」・・・・・

私;福田は、神様を信じてから六十年以上も経っていながら、生ける宮である信仰者が、「霊」と「魂(心)」と「霊」から成り立っている意味を深く知らなかった為に長い年月、自分の人生に御言葉を適用するのが難しかったのです。

ですから、この「心のチャペル(礼拝堂)」のブログを書き始めました。私たちの「体」と「心」は地の領域に属し、聖霊が宿った時には人間の「霊」の所が天の領域に属します。

旧約時代は、この聖霊が一般の信仰者の「霊」の所にはなく、モーセなどの神の僕や、王や、祭司などに限られていました。ですから、「霊」の所に「神の霊」がない一般の信仰者に対して、「十戒」に代表される主に行動面の「戒め」を具体的に与えました。

天地万物をの創造主だけを安息日を守って礼拝し、弱い立場の人をいたわり、家畜にも配慮し、奴隷を含めて他の人々に対して、行動による罪を犯さなければ充分でした。

★出エジプト 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

しかし、そのような神と人とに対する行動(言動)の戒めさえ守れば上等の信仰者であった旧約時代にあって、驚く事に、この体の「割礼」は、当初(モーセ五書;申命記)から既に「心の割礼」を意味していました。

★申命記10:16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

★申命記 30:6 あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

★エレミヤ4:4 「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」

★エレミヤ 9:25 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。9:26 エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」


※その日・・・神の審判の日・再臨の日






・・・・・(3)新約(聖霊)時代の「割礼」・・・・・

新約聖書も語ります。

下記の御言葉が、旧約時代の初期から既に言われている「心の割礼」で、新約(聖霊)時代になって、その本質が明らかになりました。何が刀で、誰がどのように何を執刀するかが、はっきり語られえいます。

★ローマ 2:29 御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。 

旧約時代は、割礼は人間で行いましたが、現在は御霊御言葉の剣で肉を切り離します。ですから、その誉れは、神から来るのです。

★エペソ6:17 「御霊の与えるである、神のことば

今の聖霊の時代、私たちの「霊の所」に存在する聖霊が、抜き身の剣である「御言葉」によって、この地の領域から来ている「肉の思い」を完全に切り裂いて切り離し、天の領域から「霊の所」に来ている栄光に溢れる神の臨在が通る道をつくります。

★ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くたましい、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。


その普通の刀よりはるかに鋭い御言葉の諸刃の剣は、神の口から出てきます。

★黙示録 1:16 (※人の子のような方は)右手に七つの星を持ち、からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 


イエス様が、十字架上で全てを切り裂いて下さったので、私たちはせめて、聖霊に指摘された御言葉により、「自分のほんの一部の心、その中の自分の肉の思いの部分を裂きましょう」と言う真理を深く知る為に、旧約時代に「割礼」が存在したのではないでしょうか。

割礼は、命に別状なない「肉体のほんの一部」を刀によって切り落としましたが、今の時代は、肉体の命には別状のない「魂の自己主張の命;プシュケー;思弁:善悪を知る知識の木の実から出た考え)を殉教して死なせ、永遠の神の命の豊かさの中に入る事です。

生きているこの地の領域にあって、魂が天の至聖所の領域に入る事ができます。体の殉教者はその時、心の奥底(霊)から通常ではない聖霊が輝き出て、心が天からの喜びで膨れ上がる中で死んでゆきます。心の殉教者も、そこまでではないでしょうが、心の奥底から湧き上がって来る、この世から来るのではない「平安と喜び」を体験します。

 621の19

イエス様が十字架上で、全て(霊・魂・体)を裂いて下さり、壮絶な孤独(霊)と、悲しみ(魂)と、痛み苦しみ(体)を味わって下さったので、私たちはせめて、この世での命には別状のないけれど大きな収穫の通路となるべく、肉の心のパンを十字架につけて裂く「心の殉教」を果たしましょう。

旧約時代の割礼のように、命に別状のない、イエス様の全身の十字架から見ればほんの小さな「裂く」事ですが、それなりに、我慢できるほどの小さな痛みは伴います。私たちの面子や、この世での人からの評判や、自分の計画に死ぬと言う事は「自分に執着する肉の思い」が裂かれるのですから、自我はそれなりの短時間の痛みを伴います。

 621の12

しかし、体の殉教者のように、魂の命を主の手に委ねた時に、大きな天の喜びを味わい、心が天の領域、御国の御座を体験するので、心の殉教をした事のない信仰者は、イエス様の弟子とは言えません。

イエス様は、十字架で死ぬ時に、必ず復活させて下さる父の力を信じました。
アブラハムも、イサクを捧げる時、必ず神はイサクを取り戻して下さると信じました。
イエス様の弟子達も殉教する時、優れた命に復活させていただく事を信じました。

私たちが、極めてちっぽけな自分の名誉・面子・世での評判などの、自分の魂の我を死なせ・・・・、
まだ見ていなくても、イエス様の体の中で聖徒達と主に受ける栄光の輝きを信仰によって確信し・・・・。
一度でも、その前味を心で味わった事がなければ、信仰の真髄を伝えられる弟子ではありません。

常に、この世の一般人と同じレベルの幸福感しか求めていないのなら、まだ十字架の道をイエス様だけの後に従がっている弟子ではありません。

★(新改訳)マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

通常使われ入る日本語の聖書では、この「いのち」の意味がはっきりしていなかった為、弟子になろうとする私たちにとって重要なこのイエス様の真の弟子への招待を受け取る事ができませんでした。下記は、ギリシャ語に忠実な翻訳です。

★(回復訳)マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。 8:35 だれでも自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の魂の命を失う者はそれを救う。 8:36 人が全世界を手に入れても、自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか? 8:37 人は自分の魂の命と引き換えに、何を与えることができるだろうか? オンライン聖書回復訳 

下記の「ふさわしくない」とは、弟子としての価値がないと言う意味だそうです。

★マタイ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしふさわしい者ではありません。10:39 自分のいのち(魂の命;プシュケー)を自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのち(魂の命;プシュケー)を失った者は、それを自分のものとします。

アブラハムから今に至るまで、ユダヤ人の方々は、「割礼」を神の民の証拠とし、誇りとしています。「割礼」無き者は、神の民の中に住む事すら出来ませんでした。

★1創世記7:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

ですから今、イエス様が全存在を真二つに切り離して「新しい契約」が成立した時代にあって、「心の殉教」をして、イエス様の壮絶な痛みの一部をほんの少しでも味わって感謝の心を持ち、そのいくばくかの痛みを忍耐しないのであったら、弟子として相応しくはありません。

身ひとつで、天国の囲いの中にやっとやっと入る事はあっても、御父に「良く忍耐した。私の息子、娘!」と冠をいただいて、天の宴会でアブラハムたちと席を連ね、御座近くで住まう事はできません。

 628の5

★マタイ 8:11 「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

選民でもなく、神の民として体の割礼を受けていない私たち外国人(異邦人)である教会の使命は、心(もちろん体もはそれ以上の御国を開きます)の殉教を日々し続け、天の宴会でアブラハムと同席するくらいに、キリストの謙遜の身丈に近付く事です。

この世で教会がいくら大きくなっても、たくさんの会員を得ても、そこにイエス様の十字架を背負って心の殉教を果たした真の主の弟子が誕生していなければ、とてもではありませんが、神の選民イスラエルの心の琴線に触れる事はありません。

★エゼキエル44:9 神である主はこう仰せられる。にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所にはいってはならない。イスラエル人の中にいる外国人はみなそうだ。

私たち異邦人の魂の命が毎日死んでこそ、イスラエルの信仰の父と肩を並べるほどに成長する事ができる私たち教会は、イスラエルの方々に妬みを起こさせていただく使命を果たせるのです。

★Ⅰコリント15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

私たちが苦難を通して御子の身丈に至る、その日の到来を、そしてイスラエルが救われる日の到来を、全ての被造物が「今か、今か」と待ち望んでいるのです。

★ローマ8:17 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。8:19 被造物も切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。






 ★花のライン17休憩
2013年7月4日(金)に続きます。「心の割礼の実際」についてです。
コチラをクリックして、一つづつお進み下さい。

スポンサーサイト

| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(4)幕屋(三)パンの机[3]「裂かれたパン④アブラハムが裂いた肉と肉の思い」

1★十字架のライン


裂かれたパン④「アブラハムの成長」  
・・・聖書全編が語る「パンが真二つに裂かれる事の奥義」・・・

先週の「パンを裂く」の三、「パン(肉)の裂け目」の意味をまとめました。

 621の1

① イエス様がサタン(蛇)のもたらせた肉(パン)をまとって十字架に上げられ、

② それを十字架上で、父が天から二つに完全に切り離した事により、
のろいを解除して祝福が地に届き

③ その永遠の命のパンと変えられたイエス様の肉を、
私たちは自分と世の人々に配る使命があり

④ キリストの体の裂け目を通って私たち信仰者の霊に届いた、
天からの生ける水の川の流れを

⑤ 御言葉に対立する私たちの魂の自己主張の命(善悪の知識の木の実)を、
死なせる事により

⑥ 自分の心と体と環境に、そして世の人々に流す管となる事ができます。


※私たちの言動をもって、出来る限りの奉仕をする事と共に、
この霊的な奉仕(悔い改め・心を裂く)によって、
自分で把握できないほどの大きな祝福を流す通路となり、
大きく御国を前進させる役割を果たす事ができます。







ライン15
《4》「アブラハムの成長」 

アブラハムが、山鳩の親子を裂かなかった事により、暗黒の恐怖を味わい、神から大きな罰として、子孫が他国で四百年間も奴隷となる事を告げられましたが、自分自身は平安(安息)の内に長寿を全うしました。四百年間も奴隷として苦しんだ子孫とは大きな違いです。

本日の主題は・・・、どうして、アブラハムは祝福(安息)の内に生涯を閉じ、どうして多くの神の民は奴隷のまま死に、奴隷から開放されて出エジプトをした民すらも安息には入れなかったかです。

下記の彼らとは「出エジプト」をしたイスラエルの民です。

★ヘブル4:1神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。

アブラハムの晩年は安息に入りましたが、召命を受けて旅立つ時からずっと、神様からの御言葉に対する従順が不完全で、失敗だらけでした。

しかし、創世記22章のモリヤの山に於けるアブラハムの最終使命に耐え得るだけの信仰(御言葉を尊重)までに、神様からの怒涛のような訓練を受け続けて行きます。アブラハムは、創世記22章の使命を果たした後、この地に於いての「安息」に入りました。





・・・・・(1)アダム夫妻とアブラハム夫妻・・・・・

ウオッチマン・ニーの言うには・・・、アダム夫妻は、「聖かったけれど、幼かった」為に、神様の御言葉を軽視し、サタン(蛇)の巧みな言葉に騙されて、禁じられていた「善悪を知る知識の木の実」を食す罪を犯して、霊の所にあった輝く永遠の命を失い、寿命しか生きられない肉体になり、この荒れ果てた地に降ろされました。

信仰者が成長する事聖くある事の両方は、私たちが思うより遥かに重要です。モーセは荒野の民たちが、パウロは教会の信徒達が、一人前の聖い信仰者にならない事が悩みの種でした。

☆モーセ

★出エジプト34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

☆パウロ

★ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

★Ⅱコリント11:2 私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。 

★Ⅰコリン3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。


神様の側(イエス様)が、誰よりも私たち信仰者がどこまでも完全に聖められる事、そして信仰の成長を願っておられます。

☆イエス様

★エペソ5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。


★マタイ 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい


天の父が、私たち人間をこのサタンの支配する荒れ果てた土地に降ろした目的は、試練と訓練の荒野の中で、神の本体である御言葉の尊さ、正しさを体験的に学ばせる為でした。

そして、信仰者が少しずつ成長し、御言葉によってサタンに打ち勝つまでに、イエス様の身丈に少しでも近付いて、天の御国に戻って来る事でした。御言葉の正しさ、神のご性質がどれ程までに崇高であるかを良く知った上で、真の意味で完全に聖くなって天の御国に帰って来る事を、今も願われておられると思います。

 621の2
藤城清治影絵聖画集よりhttp://www.jesus-web.org/kids/b_story/b_story.htm

一方アブラハム夫妻の場合、「善悪を知る知識の木の実」を食した結果の「肉の思い」があり、神様の言葉(命令)におおよそは従っても、細部まで完全に従う事ができませんでした。しかし、アブラハムの信仰は長い年月を通して成長して行きました。




・・・・・(2)アブラハム「肉の実」を刈り取る・・・・・

驚くことに、アブラハムの信仰の歩みだしは、「創世記」よりも「使徒の働き」の中に詳しく記されています。ステパノが殉教する直前の議会での演説の中で、短くアブラハムの一生を総括しています。

 ステパノ

★使徒7:2ステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、7:3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、7:5 ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。
 

アブラハムが生まれ故郷、カルデヤ人のウルを出る時、多くの財産や土地を捨てて従いましたが、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、』とあるのに、親族と離れる事は出来ませんでした。

15章に於いて、大きな動物を御言葉通りに裂いたものの、山鳩の親子を裂かなかった時のように、父のテラや、死んだ兄ハランの残された息子ロトを伴ったのは、もしかしたら心の優しさから出た不従順であったかもしれません。

それでカランに長く留まり、父テラが死んだ後も、甥のロトを伴ってカナンに入ってトラブルとなりました。

★創11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた

★創13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった

15章に於いて、大きな動物を御言葉通りに裂いたものの、山鳩の親子を裂かなかった時のように、神の命令に大方は従っても細部まで完全に守れずに、父のテラや、死んだ兄ハランの残された息子ロトを伴ったのは、もしかしたら心の優しさから出た不従順であったかもしれません。神様の言葉には、人間の考え(善悪を知る知識の木の実を食べた結果)を退けて、完全に従わなければなりません。

 621の3

※特に私たちは、こと「召命」に関する限り、どんなに父母や親族が大切に思っても、父母らの将来も、これからの経済も、全てを良きにして下さる神様に100%信頼して、旅立たなければなりません。

 弟子となしたまえ我主よ

★マタイ4:21イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った


また、神様が共にいて守ってくださる時が約束されていたのに、100%信頼できずに、自分の考え(知識の木の実)で自分の命を守ろうとした事もありました。飢饉があって、エジプトに行った時、神が味方についている事を信じきれずに、異母兄弟であった妻に、あえて妹と言わせて、トラブルになりました。

★創12:12 「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

またアブラハムは、星のように子孫が増えるとの神からの御言葉を信じていましたが、妻からの提案があった時、妻の女奴隷に子供を産ませる事に同意してしまいました。

★創16:1 アブラ(ハ)ムの妻サラ(イ)は、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。」

もしアブラハムが信仰者である妻からではなく、この世の人にこの話を持ちかけられたら、いくら当時の世の常識では正しくても、これは信仰者の道ではないと、即座に断ったに違いありません。

信仰者の妻であるからと言って、またアブラハム自身も、常に神の御言葉を選択しているとは限らず、偶像礼拝をするこの世の人たちと何ら変わらないこの世の常識や、損得で物事の善悪を判断している事があるのです。それが、「善悪を知る木の実」を食べた人間の、気づき難い罪です。

私たち今の聖霊の時代を生きる信仰者であっても、サタンの支配するこの世にいる限り、いつも「イエス様の通られた狭い道」だけを歩んでいるわけではなく、常に「いのちの木の実」だけを食べているわけではないのです。アダム夫妻のように、アブラハム夫妻のように、信仰者が合意して「広い道」を歩む場合もあり、またよく話し合っていても、「善悪を知る知識の木の実」を食べてしまう大失敗があり得ます。

私たちは、悪を選択する事は稀であっても、人間が肉の思いで考える「善」と、神の「善」とはかけ離れている場合が多くあります。しかし今や、「善悪を知る木の実」の「善」を徹底的に排除しなければならない時代となっています。

私たちは、自分の肉の思いではなく、クリスチャン同士で相談しあっても、徹底して御言葉を選択しなければ、サタンが喜ぶ選択をする場合があります。

アダム夫妻が合意して「善悪を知る知識の木の実」を食べたように、アブラハム夫妻が、信仰者である自分たちの考えが神の言葉よりも合理的で正しいと考え、良い方法だと思い、この世の常識からも外れていないと判断して、神からの「星のように子孫を」の約束の実現を待ちきれずに、女中ハガルに子を産ませると言う「安楽で広い道」を歩んだように、

 621の4


肉の思いを選択すれば必ず、必ず肉の実を結びます。

★ガラテヤ5:19 の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

パウロは、偶像礼拝者や無心論者に対してこの手紙を書いた訳ではありません。私たち信仰者に向かって書いています。

信仰深いアブラハム家は本当に麗しい家庭で、妻サラはアブラハムを「主」と呼ぶほどの従順な妻でしたが、ハガルが妊娠して傲慢になったとたん、鬼のように恐い妻となりました。争いも分裂も妬みも・・・・、一般の家庭よりもひどくなった事でしょう。

争いのある暗い家庭となってみると、毎晩ごとに星を見ながら、約束の子供が生まれる日を待ち望む忍耐の辛さのほうが、よほど平安な日々であったと、アブラハムは思った事でしょう。

今の時代も、神の業をするに当って、御言葉を第一とせず、人間の知恵や判断や方法論を第一として行う時に、必ずこれらの結果が自分の身に、麗しいはずの共同体に現れてきます。

特に教職や中心的存在の信仰者が、肉(善悪を知る知識の木の実;思弁)を選択すると、罰ではなく、警告として①男女関係の罪、②名意欲、③金銭欲・・・などの、肉の実が現れてきます。

アブラハム夫妻のように広きこの世の道を選んで「知識の木の実を食べた肉の結果;不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類」が現れたとたん、個人であっても、夫婦であっても、教会であっても・・・・、放蕩息子のように即座に踝を返し、神に立ち帰らなければなりません。今だけが恵みの時ですから。



・・・・・(3)アブラハムの成長・・・・・

しかし、アブラハムは、その生涯の前半で、数々の失敗や罪の実を刈り取りつつ、成長してゆきました。

★ガラテヤ6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。6:8 自分ののために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

最も厳しかったのは、子孫に対する他国での四百年間の奴隷になると言う「肉の実」でした。

その苦しい思いをしっかりと抱いて、細部まで御言葉を完全に守れなかったアブラハムは、完全に守る者へと成長しました。

肉の実であってもイシュマエルは、アブラハムにとっての最初の息子でしたから、「割礼」の命令が出た時、小さい山鹿の親子を避けと言われた時と同じ感情があったはずです。

★創17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」

しかし、アブラハムは、不従順の結果が身にしみていますから、命令を完全に行いました。

 621の6

また、信仰の忍耐を全うして、とうとう「霊の子イサク」の誕生を見ました。

 621の5
 
そして、どんなに心が痛んでも、の子イシュマエルを切り離して、遠くに行かせました。
割礼もそうですが、の一部を完全に切り離す時、その裂け目を通って神の力が地に届くのです。







エンディング

出エジプトをしたイスラエルの民は、数々の奇跡を見たのに、神の臨在の雲に昼も夜も守られていたのに、試練と訓練の荒野で亡びました。

アブラハムは、失敗と罪の連続、その実を刈り取る辛さを充分に嘗め尽くす「試練と訓練の荒野」の中で、肉の思いや願いよりも、神の御言葉を尊重する「キリストの身丈」へと達しました。

★ルカ22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

そしてとうとう、イエス様の十字架を象徴する「モリヤの山」での生涯最後の試練、一人息子イサクを捧げる使命を全うするのです。この時の為に、アブラハムは数々の試練を通って訓練されてきたのです。イエス様でさえ、多くの苦しみによって、御言葉への従順を学んだのですから、私たち人間も試練の荒野があって当然です。

★ヘブル5:8-9「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、」

また、イエス様は十字架につけられる時、必ず自分を復活させる力のある御父を信じて死にました。アブラハムもまた、神がイサクを取り戻してくれると信じてイサクを本気で屠ろうとしました。

★ヘブル11:17-19 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。・・・彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

私たちが一般信仰者ではなく、神に仕える真の僕、真のキリストの弟子となる献身の心があるのなら、私たちは先ず、心の殉教を捧げ続けて、キリストの身丈に至る事が先決です。

何故ならば、イエス様の身丈に到達(一度でも自分の肉である垂幕を裂いて、至聖所に達する事)して初めて、天の父の心を知る事ができます。

アブラハムはキリストの身丈に達したので、御父の心を知り、神である父の友となりました。

天の父は、ご自分の最も愛する御子イエス様を、私たちへの愛ゆえに、十字架につける決断はしていました。でも理性的には納得していても、感情的には、その父の心の辛さを知ってくれる友を求めておられたのではないでしょうか。

それ故に、アブラハムを人間側の父と見立て、その一人子をモリヤの山頂で、本気で刀を振り下ろすかを確認したかったのではないでしょうか。

アブラハムが本気で刀を下ろそうとその時に初めて、神様父子が十字架で味わおうとしている艱難を、感情的に納得されたのではないでしょうか。

 ★モリヤの山


実際に痛み、苦しんだのは御子ですが、それを見ている親のほうがどんなにか辛いでしょうか。

その父の心を知る御子は、十字架の艱難を選択した父の心の強さ、完全さに「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、永遠から永遠の中で最も崇高な「賛美」を、御父に向かって捧げました。

御父は、アブラハム親子に対しては、身代わりの雄羊を準備しましたが、その約二千年後の十字架の時には、御子をいけにえの羊として捧げました。

私たちがキリストにある「苦難と御国の忍耐」に少しでも与る時、この神の父子の十字架の艱難のほんの一部でも知る事となるのです。下記はパトモス島での使徒ヨハネの言葉です。

 621の15

・・・こうしてアブラハムは、数々の試練と訓練の荒野を卒業して、人生(この世)での安息に入ったのです。

★ヘブル4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。



  

3ライン 







 ★花のライン17休憩
2013年6月28日(金)(コチラ)に続きます。聖書の奥義「割礼」についてです。




| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(4)幕屋(三)パンの机[3]裂かれたパン③「パン(肉)の裂け目」

1★十字架のライン


裂かれたパン③「パン(肉)の裂け目」  
・・・聖書全編が語る「パンが真二つに裂かれる事の奥義」・・・

先週は、「パンを裂く」の二、
アブラハムが御言葉を細部まで完全に守らなかった事により、
子孫に苦しみを負わせた事を見てきました。

信仰者が御言葉に従えば未来に大きく御国を開き、
御言葉に従わない時に、御国を後退させる事を教えられました。
本日は「パンを裂く」の三、「神が肉(パン)を裂く目的」を見てゆきたいと思います。





 ライン15
《3》「パン(肉)を裂く意味」 

アブラハムが、山鳩の親子を裂かなかった事により、暗黒の恐怖を味わい、神から大きな罰として、子孫が他国で四百年間も奴隷となる事を告げられました。その後、裂いて向かい合わせになっている「三歳の雌牛」と、「三歳の雌やぎ」と、「三歳の雄羊」の肉の間を、「煙りの立つかまど」と、「燃えているたいまつ」が通りました。

 531の9

聖書の達人の註解によりますと、「土地所有の再確認は,契約の儀式を通して与えられる.動物を2つに切り裂き,その間を通るのは,古代中近東の契約の儀式.契約を破った時にはこの動物のように切り裂かれても文句なし,との了解を意味したのだろう。」と、下記を引用して解説しています。

★エレミヤ34:18 また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。

もちろん、絶対に契約を破らない神は、このような罰則の規定がなくても、守ります。

契約も律法も、元々は義なる神から出たものです。神と信仰者の間の重要な契約を行う時に、義そのものである神が、単にこの世の制度を真似てアブラハムと契約を結んだのでしょうか。もっと重要な意味がここにあるのではないでしょうか。

聖書は全体を通しての重要な真理は、死を通してこそ新しい命が生み出されると言う法則です。

エデンの園でアダムたちが、「善悪を知る知識の木の実」を食べた時に、サタンの性質を受けついでしまった人間の肉体と思いを「肉」と言います。

その神に逆らって立つ「肉」と「肉の思い」が完全に死んで、真二つに切り離された間を、「神の臨在」である「煙の立つかまど」と「燃えるたいまつ」が通り過ぎました。

 614の2

イエス様の十字架は、神の御言葉(命令)を細部まで完璧に守って、肉の思いを裂き(心の殉教)、肉体の命(体の殉教)を裂く時、人類の前に、神の御国が破格に大きく開かれる事を、証明しています。

この、イエス様が天からパン(肉)として降りてきて、十字架で真二つに裂かれた深い意味を見て行きたいと思います。

 531の1

ここでのパン(肉)の意味は、決して体と心に美味しいパン(肉)の意味ではなく、蛇であるサタンの影響を受けてのろわれたパン(肉)です。

★ヨハネ3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

「人の子もまた上げられなければなりません」とは、十字架上に上げられなければならないと言う意味です。

 426の7

イエス様は、私たち人類がまとっているサタンの影響でのろわれた肉をまとって、十字架でそののろわれた肉を裂いて、その結果である「死」を滅ぼして、永遠の命をもたらして下さいました。

★ガラテヤ3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

★ローマ7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。


モーセが荒野で蛇を上げた状況を見てみましょう。

★民数記21:5 民はとモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ

天地万物を、そして自分達人間を造られた神が絶対的に正しく、愛に溢れた良いお方である事を忘れ、
神の御計画よりも、自分達の考えが正しいとして不平不満を言ったのは、エデンの園に於いて「善悪を知る知識の木の実」を食べた結果です。

サタン(蛇)の性質を受けついで、自分を造られた神に対して、サタン(蛇)の性質を丸出しにし、神に対して言い逆らった時、神はサタン(蛇)を使って、肉なる者たちを裁きました。

これが厳しい裁きの現実です。神の愛と義の御言葉を尊重せずに、最後までサタンに騙された肉の心で生きていくのなら、結末はサタンの国でサタンに苦しみを受けるのです。これが地獄の実態です。

サタンは、私たち人間がサタンに従ったとしても、彼らは従った者を愛してはくれません。滅び行くこの世での快楽や富や名誉を提供して、永遠の亡びにいざないます。神が愛している人間を苦しませる事が、神を憎んでいるサタンにとっての最大の神に対する報復ですから。

サタンの提供する「肉」とは、かくも恐ろしいものです。サタン(蛇)にだまされ続けて、サタン(蛇)の言葉、自分の考えが、愛と義と栄光と永遠の輝く命に満ちている神の言葉よりも正しいとするのなら、サタン(蛇)に噛み付かれて死ぬのです。しかし、十字架を仰ぎ見れば生きるのです

繰り返しますが、神よりも自分の考えが正しいとするサタンのDNAによって生きている事を、聖書では「肉」の存在と言い、その思いが「肉の思い」で、肉の思いの結果は「死(永遠の死)」です。

★ローマ8:13 もしに従って生きるなら、あなたがたは死ぬ のです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

イエス様は、その肉をまとってこの地に降りて来られ、そのサタンの影響を受けている人間の肉を十字架の死によって滅ぼし、永遠に生きる事が出来るようになりました。

★民数記21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。21:8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃えるを作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた

神は、天からキリストの肉(垂幕)を真二つに裂き、天よりの神の永遠の輝く命を、地にもたらしました。

 614の3

イエス様が十字架上で息を引き取った時、神殿の幕が真二つに上から裂けました。

★ヨハネ3:16 は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様が、父のご計画と命令の言葉に完全に従ったので、イエス様はサタンからのろいに満ちた肉の塊としてのパンが完全に裂かれてのろいが解除され、神の祝福が真ん中を通ったので、そのパンは人を永遠に生かす命のパンとなりました。

その結果、神を唯一の救い主として信じる私たちは、神の輝く命に溢れたイエス様の体を、永遠の命のパン(聖餐)として私たちは味わう事が出来るようになったのです。

 531の110
http://www.mormonchurch.com/tag/mormon-church

世界で初めての聖餐式の時・・・、十字架に付けられる前日に、イエス様は食卓にあった普通のパンを取り上げて祝福し、裂いてから、イエス様の体の象徴(記念)「永遠の命を与えるパン」として、弟子達に与えました。

★マタイ26:26彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

イエス様がまとっていた「忌まわしい肉としてのパン」が、天の父の手によって十字架で裂かれ、その裂け目を通って神の臨在と力と永遠に輝く命が、この地に降りて来たのです。

 614の6

この、イエス様が天を見上げて祝福してからパンを裂かれた姿を、そして弟子達がそのパンを人々に分け与えた光景を、どこかで見なかったでしょうか?

 614の5
http://dh-gospel.nsf.jp/message/cs_camp05.html

そうです。男だけで五千人を養った「24の籠の奇跡」の場面です。

 614の9

★マルコ6:41 イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、を見上げて祝福を求めパンを裂き人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。

 feeding.jpg

私たち弟子の役割・・・それは、十字架で裂かれ、天の神からの祝福が降った命のパンを、世の人々に分け与える事です。私たちの心配りも、声も、手も、足も・・・、このパンを人々の為に分け与える為に用いていただきましょう。

人々が、この地で生きて行くパンの為に、そしてもっと大切な、永遠の中で生きて行くパンのために、私たち弟子は人々に仕えましょう、

イエス様は、弟子達に神の御国について語り、御言葉を教えました。そして上記のように、行動面での弟子訓練を多くしました。祈り方、伝道方法、悪霊追い出し、癒し・・・、弟子達は、充分にそれを学び、生かしました。

しかし最も重要な教えは、私たちの肉の思いを死なせる(裂く)事です。人間が限りある命と、財力、賜物、体力で、手の届く世の人たちの為に働く事は重要な事です。

私たちが行動によって実を結べる範囲には、限界があります。それももちろん、神様の御前に尊い事で、クリスチャンは全員しなければならない事です。

しかし、私たちが差し出す良きもの(時間、財力、賜物、体力・・・)を神様の御前に差し出す時、イエス様は、先ずそれらを天の父に向け、それらを祝福して裂いて後、用います。

 614の14
右上http://www5b.biglobe.ne.jp/~saitama/mikotoba/miko1105.htm
右下http://www.instonebrewer.com/visualSermons/GoodManners/_Sermon.htm
 

それは、私たちの霊の所に、天からのイエス様の裂かれたパンの間から訪れる祝福が届いても、私たちの肉の心が裂けて隙間が出来ていなくては到底、世の人々にその祝福が流れてゆかないからです。

ですからイエス様は、くれぐれも私たち弟子に言いました。

★ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

私たちの住んでいる国と時代はまだ、体の殉教をする段階ではありません。

しかしもし、私たちが心の殉教(御言葉に対立する肉の思いを死なせる)のなら、私たちは大きく御国の門を広げ、実際の行動で結ぶ実とは比べ物にならないほどの豊かな実を結ぶ事ができるのです。、

 再臨前の大収穫

その為に、私たちの霊の所を包み込んでいる「心の堅い垂幕」を裂きましょう。

 45の1 心の垂幕

そして、私たちが肉の力では絶対に達し得ない「多くの実」を結ぶ、天からの通路「通りよき管」となりましょう。

 45の5 心の垂幕 通り良き管
↑http://kingsjester.wordpress.com/2013/03/31/he-is-risen-3/

天国では、体の殉教者に続いて、心の殉教者も大きな報いを受ける事でしょう。

 ★cross1






エンディング 

♪「主の癒しの川が」 

私たちの心のパンを裂いて、この日本の地に、世界中に、
天からの祝福を流す者となりたいと思います。


412の7全てが生きる

412の6癒しの川1


 


3ライン 







 ★花のライン17休憩
2013年6月21日(金)(コチラ)に続きます。




| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(4)幕屋(三)パンの机[3]「裂かれたパン②アブラハムの裂かなかったパン」

1★十字架のライン


裂かれたパン②「アブラハムの裂かなかったパン(肉)」  
・・・聖書全編が語る「パンが真二つに裂かれる事の奥義」・・・



イエス様は・・・、
私たちが、天の御座の真ん前に座り込んで
直接、神と語り合う事ができる道を開き

そして、
私たち肉体が、死んだら天の御国の安息の中へ
私たちの肉の心を死なせたら、心が御国の安息に入る事ができるように
十字架で真二つに裂かれる為に、天から降って来られました。

先週は主に、私たち人間の側が天に向かう方向を見て来ましたが
本日は、天の神様の側から見た「パンを真二つに裂く」意味についてです。


パンと言うのはこの場合、肉体の事であり、肉の思いの事です。

神様が、礼拝を自発的で純粋なものをする為に、
悪を選択する可能性を覚悟して、全ての被造物に「自由」を与えました。

しかし先ず、自由意志が与えられている天使の一部に、
神に逆らうサタンが出現しました。

自由意志を与えられた最初の人間アダムとエバもまた
その被造物に与えられた自由意志を働かせて、神と神の言葉を第一に敬わず、
サタンの考えを受け入れて神の言葉に逆らい、知識の木の実を食べました。

★Ⅱペテロ2:16(口語訳) 自由人にふさわしく行動しなさい。
ただし、自由をば悪を行う口実として用いず・・・、


悪を行うであろう事は想定内であったのですが、実際に世(地)が始まると、
悪ばかりが増大してしまい、神は全ての肉なる被造物を造った悔やみました。

アダム以来、人々は自分の自由意志で自由を謳歌しているつもりですが
実際には自分では気づかずに、サタンの奴隷として、
悪の道を地獄に向かってまっしぐらに進んでいるのです。

★創世記 6:5 主は、地上に人の悪が増大し、
その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。
人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。
わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」


このノアの時、多くの偶像礼拝者・無心論者だけではなく
天地万物を造られた神を信じる人々もいたはずです。
しかし神の僕エノクの子孫も多くいたはずなのに、ノアだけが義とされています。

神様が最も心を痛めるのは、一般の人間の罪ではなく、
神を知る民が、霊である神の本体である「御言葉」に従わず
肉の悪い思いによって歩んでいる事です。

この肉の思いとは、エデンの園で人間が食べた「善悪を知る知識の木の実」により
人の心に悪いパンだね(DNA)が入って脹らんだ心こそが「肉(パン)」です。

十字架の血によって罪が贖われる以前の人間は
この被造物の肉(パン)を代表して象徴するのが、ケルビムが刺繍された「垂幕」です。

イエス様はこの肉(パン)をまとってこの世に降りて来られ、
この肉(パン)を裂いて、サタンに勝利しました。

肉(パン)が十字架上で裂かれてこそ、
エデンの園から続いたサタンの死の影響力の根を完全破壊して無とし、
人間に永遠の命をもたらすパンとなったのです。

反対に言えば、肉と肉の思いを裂く他に、サタンに勝利する方法はありません。
この世の御国(安息)に入るにも、キリストの身丈に達するのも、
この世での使命達成のカナンの地に入るのも、天の御国に行くのも、
境界に存在するのは「肉の垂幕」です。

「肉の心」を死なせるか、「体の肉」が死ぬかの二つです。
イエス様はゲッセマネの園と、十字架上で双方を死なせました。
この意味を詳しく学んでゆきましょう。






 ライン15
《2》「アブラハムが真二つに裂かなかった肉」 

先週の《1》「イエス様は裂かれる為に天から来たパン」 の続きです。

本日からは、創世記15章に於ける、神とアブラハムの契約の場面から、肉を裂かない事の結果を見てゆきたいと思います。

先ず、アブラハムの子孫に関する星の約束です。

 531の3

この約束の通りに、星の数ほどに数え切れないほどの神の民のその中に、今の私たちが存在しています。

また、使徒行伝二章で注がれた聖霊の御業の結果、私たち東側の地の果てである日本に福音が伝わり、私たちは神の民とされました。

★使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

私たち日本に生まれたクリスチャンは、この創世記15章の星の約束と、使徒の働き1章の聖霊の約束の成就であり、その神の語られた御言葉が確かである事の証人です。

次にアブラハムは、約束の地カナンの所有に関する契約を、神と交わします。
このカナンの地は実際のカナンの地ではなく、そして、私たち今の時代に至るまでイエス様を信じる全ての信仰者も受け継ぐ「天の都」である事は、ヘブル書によって明々白々です。

 永遠の神の都6
上の絵はの2013年3月31日イースター賛美礼拝「永遠の神の都」の一部です。

★ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。

アブラハムと息子イサクは、遺体を納める墓地以外はカナンの地を所有せず、生涯の間テント(天幕)生活をしました。ヤコブもおそらく、晩年になってヨセフによってエジプトのゴシェンに定住する前までは少なくとも(エジプトがどのような住居を準備したかわかりませんので)、テント生活であったかと思われます。

そのヤコブもエジプトには眠らず、信仰者の永住の地は「天のカナン」である事を象徴して、カナンの地にミイラとなって運ばれました。

★創世記50:2 ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父(ヤコブ)をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。
★創世記50:13 その子らは彼(ヤコブ)をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。


アブラハムはこの時点ではカナンの地の相続・・・、実質的には後に「天のカナンの地」を、私たち子孫と共に相続する為に、神様にその証拠を迫りました。

★創世記15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

すると、神は四種類、動物三匹と二羽の体を裂いて向かい合わせにするように命じました。しかし、アブラハムは大きな動物を裂く事に疲れてか、山鳩は小さいので軽んじたのか、それとも親子とも裂くのが可哀想に思ったのか・・・、山鳩の親子の二羽だけは裂きませんでした。

 531の4

この、神様の言葉(命令)を細部まで完全に守らなかったアブラハムに対する罰は、想像を絶するものでした。
先ず、アブラハムは深い眠りに落ち、ひどい暗黒の恐怖に襲われました。

 531の5

信仰者は、神様の言葉(戒め)を守らなかった時には必ず、大きな罰を受けます。
神様の私たちに対する教育法は、徹底的に体験的学習です。

下記の詩篇の著者の悟った通り、アブラハムも地獄を味わったかごとく闇の恐怖の中で、神の言葉は細部まで守るべき事を学びました。

★詩篇119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください

ヨナが、神のニネベに行けとの言葉に反してに、タルシシに向かった時に罰を受けて、巨大な魚の腹の暗黒の中で地獄の恐怖を味わい、御言葉への従順を学んだ時と同じです。

★ヨナ2:3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。・・・2:5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。

地のかんぬきがいつまでも自分の上にあったと感じたと言う事は、地獄にいるも同然の闇をヨナは体験した事になります。アブラハムもこの、御言葉を細部まで完全に守らなかった時に味わった暗闇の恐怖とは、地獄を味わったも同然の厳しさでした。

しかしアブラハムは、御言葉への不従順のもたらす結果の、さらなる重大さを知る事となります。
アブラハムの子孫が、四百年間もの長期間、外国で奴隷となると言うアブラハムへの罰です。

★詩篇15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」

自分に対する罰であるのならまだしも、また過ぎ去ってしまう一時的な暗黒の恐怖なら忍耐すればよいものの、子孫に対する長期間の奴隷の苦しみを、自分の不従順への罰として子孫が背負うとは、アブラハムをどれ程までに後悔させた事でしょうか。

神の御計画の中で、ヤコブの最愛の息子11男ヨセフが先に奴隷としてエジプトに売られ、そこでエジプト№2の宰相に上り詰め、飢饉の時に一族をゴシェンに移住させ、そこで一族は幸せに暮らし、ヨセフが死ぬ所で創世記はハッピーエンドとして終わります。

この時代まで神の民はエジプトで特別扱いをされて幸せでしたが、ヨセフは死ぬ時に、神が自分たちを信仰者の永住の地を象徴するカナンの地に連れ帰って下さる日を望み見て、父ヤコブと同様にミイラにするように頼んでおきました。

★創世記50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

 531の7

しかし・・・
★出エジプト1:6ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。・・・1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

イスラエル12部族は、このようにしてエジプトの奴隷となりました。

 531の6

この苦しみの四百年間、神の民の叫ぶ声は天に確実に届いていました。

そこで神は御計画の内にモーセを誕生させ、エジプトの王子として40年、羊を飼う羊飼いとして荒野の40年間訓練をした後、エジプトに遣わします。

★出エジプト3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。・・・・3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。 3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

創世記15章でアブラハムに語られた、多くの財産を持って出てくる事も、四代目の者たち(※ヨセフをはじめとするヤコブの息子イスラエル12部族の長たちと推測)がカナンの地に戻って来る言葉も成就しています。

★創世記15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。・・・ 15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。

おそらく、創世記50章でヨセフがイスラエルの子らに、遺体をミイラにして必ずカナンの地に携え上ってくれるようにと頼んだ時、彼らはヨセフだけでなく、12部族それぞれの自分たちの父親の遺体も一緒にミイラにして連れ上ろうと決意したに違いありません。

★出エジプト12:35 イスラエル人はモーセのことばどおりに行ない、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。12:36 主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った

★出エジプト 13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。(創世記50:25-26)」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。 


これらの宝石や着物は、シナイ山の麓で幕屋を建設する時の材料となりました。

あるメッセージでは、神は義なる方なので、エジプトでの奴隷としての労働への当然の報酬として、きっちりとエジプト人に払わせたのだと語られていました。
※下は、神の民がエジプトから剥ぎ取った宝を持って、紅海の水の中を歩んでいる希少な絵です。 

 531の8

神様は、アブラハムが山鳩とそのひなの肉体(パン)を真二つに裂かなかった事により、アブラハム本人よりも子孫に長期間苦しみを受けさせました。

民は自分の罪の罰でもないのに、四百年間も神の御前にその苦しさを叫び続け、その声は確かに天に届いていたものの、殆どの民はそれすらも知らず、一筋の光明も見えないままに他国エジプトで死んで行きました。、

それなのに、アブラハムは一時の暗黒の恐怖の後、この地で生きている間に祝福を受け、老後は平安(安息)の内に長寿を全うします。生きている間に祈りの結果を見なかった多くの民とは正反対です。

この後にアブラハムはどんな人生を歩んだのか、神の御言葉に対する心にどんな変化が起きたのか・・・、来週から詳しく検証して行きたいと思います。






エンディング 

「パン」と言う時に、「①体の食物のパン」と「②心の食物の御言葉」の意味があります。

そして「イエス様がパン」と言う時、「①御言葉(パン)の本体であるイエス様」と
一粒の麦として「②ご自分の全て(肉体と肉の思い)を裂かれたパンであるイエス様」の
二つの全く別の真理を表していますが、その二つの真理は密接に結び付きます。


今週からは「①肉と②肉の思いを裂かれたパン」としてのイエス様を見ています。

神様の言葉を、この世の全てに優るものとして尊重し、その為に命を捨てる事は
「① 体のパン(肉)を裂くこと;体の殉教」です。
天国に行った時、最も位が高いのは殉教者です。

神様の言葉(命令)を尊重して、それに対立する自分の考えを死なせて退ける人は
「②心のパン(肉の思い)を裂くこと;心の殉教者」です。
心の殉教は、体の殉教に先立っています。
体の殉教をよしとする人は、とっくに心の殉教をしている人です。

「神の本体である御言葉」に対立する「肉と肉の思いは、サタンから来たものですから
これを裂かなければサタンに勝利する事はなく、御国の前進に役立つ事もありません。


ですから、アブラハムは15章に於ける契約の儀式の時に、
神の本体である「御言葉(命令)」を細部まで完全に守らず、
御言葉に逆らって立つ自分の「肉の判断」を退けず(裂かず)に
これまた象徴的に、山鳩の肉を裂かなかった事の罰として
子孫に大きな苦しみを負わせました。

信仰者が御言葉を尊重しない時に、御国は大きく退きます
反対にどんなに苦しい場面でも、信仰者が御言葉に従えば
それに続く未来の人々の前に、御国が大きく開かれて行きます

信仰者が御言葉に従う事とは、私たちが考えるより遥かに重要です。

★出エジプト20:5 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す


アブラハムは、神の言葉を細部まで完全に守らなかった罰として
子孫が四百年間も、他国で奴隷となり、苦しみを受けました。

最初の人間アダムは、たった一つの神の御言葉(一戒)
「善悪を知る知識の木の実を食べてはいけない」を守れず
アダムの子孫である私たち全ての人間は、アダムの後ろについて
サタンの支配する、汚れてのろわれてしまった
荒野であるこの地に降ろされてしまいました。

イエス様だけがこの地に於いて、どんなに苦しくても痛くても悲しくても
百パーセント、神の言葉に従いました

ゲッセマネの園では、ご自分の肉からの思いを、正直に祈りましたが、
その肉の願いを退け、御心(神の御言葉)に従いました。

★マタイ14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、
もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように と祈り、
14:36 またこう言われた。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」


天の父は、聖かったけれども、幼い信仰者であった故に
神を信頼し、神の御言葉を尊重出来ずにサタンに負けてしまった
アダムとエバを荒野である、サタンの支配しているこの地に降ろし、
そこで失敗をしても、道に迷っても、汚れにまみれても、重罪を犯しても
その悪の実を刈り取る辛さを体験して、
御言葉の正しさを一つづつ知り、神の偉大さを一つづつ学んで
サタンに打ち勝つ事のできる、成人(キリストの身丈)に達した信仰者となって
天の御国に戻って来てほしいと、願っています。

★ガラテヤ 4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで
私は再び あなたがたのために産みの苦しみをしています。

★ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。


私たちの為に全てを裂いて、
御国への帰り道を開いて下さった御子に、そして・・・

一人息子の苦しむ姿を見ていると言う患難で心が引き裂かれても
私たちを愛するが故に、御子の十字架を忍耐して下さった御父に
自分の全てを捧げる献身を決断しましょう。






♪聖歌582番「神の御子に在(ま)すイエスの為に」



①神の御子にます イェスの為に 
罪を敵として 立つは誰(たれ)ぞ
《くり返し》 
全てを捨てて 従いまつらん
我が全てにます 王なる主イェスよ

②富の楽しみと 地の位(くらい)に
目もれずイェスに 付くは誰ぞ
《くり返し》

③罪に囚(とら)われし たましいをば
イェスに連れ来たる 勇士は誰ぞ
《くり返し》

④我が持てる物は 主よなが物
きよき御戦(みいくさ)に 用い給え
《くり返し》


3ライン 







 ★花のライン17休憩
2013年6月14日(金)(コチラ)に続きます。







1018254ziqayvf5qd.gif
旧ホームページのご案内

イスラエルの出エジプトの歴史を通して、全ての信仰者に次の事を教えています。

     ☆ エジプト(この世)
     ☆ パロ王(この世の君サタン)
     ☆ 奴隷(罪の奴隷)
     ☆ 小羊の血による贖い(十字架の血による贖い)
     ☆ 紅海(洗礼)
     ☆ 荒野(試練と訓練)
     ☆ アマレクとの戦い(祈りの手を挙げ続けている間はサタンに勝利)
     ☆ 雲の柱・火の柱(聖霊の導き)
     ☆ 日ごとのマナ(日ごとの御言葉)
     ☆ 岩から水(キリストの岩から命の水の川)
     ☆ 幕屋(①個人がキリストの身丈に至る ②集合体としての教会の完成)
     ☆ ヨルダン川(契約の箱であるキリストで一致して渡る)
     ☆ カナンの地(天の御国・心の御国)

「出エジプトの民の歴史は信仰者の型」は、
私;福田の最旧ホームページに詳しく解説してあります。

「リバーサイド・ライフチャペル」
左の列から「今週のメッセージ」をクリックし、
上段の右にある「バックナンバー」から、2004年7月4日から始まっている
「出エジプトの民の歴史は信仰者の型」を
出エジプト記をお読みになりながら参考になさって下さい。

神学校を卒業したて時期の文ですし、
まだ充分に真理を学んでいない頃のものですが、
基本的な意味は、詳しく記してあります。

故障によって中断してしまったので、直しようがなくて途切れたままになっていますが、
もう一度、最新情報と共にわかりやすく書き直し、続きを加えたいと願っています。

他の二つのホームページのURLにつきましては
整備が終わり次第、お知らせします。


1018254ziqayvf5qd.gif

| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。