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2013年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年10月

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天国への地図(4)幕屋四燭台⑨「ヤコブの人生に於ける聖霊の介入」





1★十字架のライン



アブラハムが御父を象徴し、二代目のイサクが御子を象徴しています。

その御子を象徴するイサクが、教会を象徴するリベカと結婚をしました。
しかしリベカは不妊症であったので、イサクが主に祈り、妊娠をする事ができました。

★創25:21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった

 249イサクとリベカに

教会を象徴するリベカの為に、御子を象徴するイサクの祈りによって生まれた
双子の男の子は、教会の信徒を象徴しています。

双子の兄エサウの人柄はおおらかで働き者でしたが、信仰面では霊的に疎かったので、
肉的なクリスチャンを象徴していると言えます。
一方弟のヤコブは、性格は悪かったのですが、霊的な信仰者でした。

聖書の登場人物の殆どの兄弟姉妹は、兄や姉が肉的信仰者で、
弟や妹が、霊的クリスチャンでした。

★兄カインと弟アベル ★兄イシュマエルと弟イサク ★優秀な兄達と末弟ダビデ
★姉マルタと妹マリヤ たとえ話の中でも★賢い兄と弟放蕩息子・・・・

これは、信仰者が最初は肉的であって、徐々に霊的になる事を象徴しています。
ましてや、教会リベカが生み出した信徒である双子の兄弟は、
一人の信仰者の中の、肉から霊への成長を表しています。

★Ⅰコリント 15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。


そして、神がエサウを憎み、ヤコブを愛したように、
私たちもまた、霊的に成長しなければ、神に憎まれてしまいます。

★マラキ 1:2 エサウはヤコブの兄ではなかったか。
――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した
1:3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、
彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」


本日は、アブラハム家三代目のヤコブにどの様に聖霊が働いたのかを見て行きましょう。






ライン15
「ヤコブの人生に於ける聖霊の介入」」 


・・・・・(1)長子の教会・・・・

お腹の中にいる時から激しい性質を持って生まれた弟のヤコブは、この世での長子の権を求めたように見えて実は、永遠の御国に於ける長子の権を重要視し、その信仰面の鋭さで神に愛されました。

 isak yakob

しかし、一杯の赤いシチューと引き換えに長子の権を軽んじたエサウを通して、聖書はそれがどんなにか愚かな信仰(考え方)であるかを教えています。

★ヘブル12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。12:17 ・・・彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

エサウは、神の国(天の御国)を第一に求めず、添えて与えられるものを真っ先に求めてしまいました。
★ マタイ6:33 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(衣・食・飲)はすべて与えられます。

一方ヤコブは、兄を騙して長子の権を奪ってしまったので、兄のエサウに命を狙われて母リベカの里に、一人寂しく逃げて行きました。

結婚をして数々の苦労を重ねたヤコブが、後に兄エサウと再会します。

長子の権を失った時に泣いたエサウでしたが、この時点では決して貧乏ではなく、むしろヤコブよりも裕福であったかもしれない程、この世にあっての問題はありませんでした。イサクがヤコブに与えた長子の権は、この世のものではなく、天に於ける長子の権であったのです。

 jacob_esau.jpg

主の日が迫る今の時代にあって、クリスチャンの全てがヤコブのように、神を信じる者が受けつぐべき天のものを第一に求めているかを教える為に、エサウとヤコブの記録があります。

★ヘブル12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています

ヤコブの祖父アブラハムは、それを徹底して知っていました。約束の地カナンを相続する約束で故郷を捨てて旅立ちましたが、自分たちの遺体を収める墓地だけしか所有せず、この世では旅人としてテント暮らしをしました。

ヤコブもアブラハムも、自分たちの肉の心で考えたのではなく、霊の中に聖霊によって啓示された天の相続地、御国の財産、イエス様が建てて下さっている住まいをしっかりと把握していました。

★ヘブル11:9 信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。

また、リベカが体内で暴れる兄弟を危惧して主に行く末を聞いた時、予言では「一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」とありましたが、この再会の時にはむしろ弟ヤコブの方が兄に対して低姿勢でした。

高い地位に着いて、兄が弟に頭を下げて仕えるのもまた、この世ではなく、天の御国にあっての事でした。

モーセもまた、ヤコブのように、アブラハムのように、滅び行くこの世での名誉や富ではなく、真に価値のある富と栄誉をしっかりと見据えていました。

★ヘブル 11:26 彼(モーセ)は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

教会から生み出された私たち信仰者全てが、長子の教会となって富と栄誉を受けつぐわけではなく、天での価値を、この世での価値よりも低く捉えていては、永遠の中で歯噛みをする程に自分の信仰生涯を悔いる事になります。

★コロサイ 3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい





・・・・・(2)「ヤコブの年表」・・・・

聖書の記録では、年齢が全てが明記されていないのですが、おおよそのヤコブの生涯を年表としてまとめてみました。
※お気づきの点がありましたら、お知らせください。

927の2
927の3

ヤコブの人生の幕屋もまた、大きく幕屋の三つの区分に相応していて、出エジプトの歴史とも、イエス様の生涯とも、その他の信仰者の生涯とも、そして私たちの信仰生涯とも同じ道を、辿りました。そしてついには、天に於ける安息(ヤコブの遺体は御国の象徴であるカナンの地)に入るのです。

ヤコブの天国への地図では、77才頃に兄のエサウを騙して長子の権を奪ったので、逃げるようにしてたった一人で旅立ちました。

祖父のアブラハムのように召命を受けてではありませんが、失敗や罪を犯した信仰者の人生も、全てをあい働かせて益とする為に、神はイエス様と同じように試練と訓練の荒野に導き、人生の最後には「この世での安息」の祝福に入れてくださるのです。

下記の聖所に入口が、天国への地図の狭い十字架の道の門です。

アブラハムも親族と故郷を後にして一人でカナンの地を目指して行ったように、ヤコブも故郷を捨て、たった一人で旅立ちました。

 906の15
 
石を枕に野宿をした時、神様が天からはしごを降し、出会ってくださいました。
ヤコブにとってはその体験が、イエス様や、大祭司や、弟子達が聖霊の衣をまとった所です。

このように、全ての天を見上げている信仰者は、必ずこの天国への狭き道に導かれます。これが私たちの気づかない聖霊の介入です。

ヤコブが、この幕屋の三区分の通りに歩んでいる様を見て、私たちもまた試練の荒野にいると感じた時には・・・・、

・・・自分の目には最愛のヨセフを失ったと信じ込んで悲しみの日を送っていた背後に、大きな祝福の御計画が敢行さていたヤコブの人生を思い、神のなさる事を信じて日々を過ごしましょう。





・・・・・(3)私たち信仰者の象徴ヤコブの生涯・・・・

私たち信仰者(信徒)の象徴であり、代表であるヤコブは、エジプトでパロ王の前に立った時に、「自分の人生は不幸であった」と言いました。

★創世記 47:7 ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。47:8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」47:10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。

 927の4

なぜ、信徒の代表が、信仰者の人生を聖霊が導いた事の象徴であるヤコブの一生が、不幸に満ちていたのでしょうか?

またなぜ、神様はヤコブの性格を悪く造られたのでしょうか?なぜ、もっとやさしく、人々の誰にでも親切な性格に造られなかったのでしょうか?
※私たちはパリサイ人のように、ヤコブよりも自分の方が善人であると感じてしまいます。しかし、私たちは信仰者であっても、ヤコブのようにその本心は自分中心な者であり、神の絶対的な愛に比べたら、誰もかれもが五十歩百歩で愛のない者です。

そしてなぜ、神様は、ヤコブの人生を人々の目から見てうらやむほどに、華々しく成功させなかったのでしょうか?

ヤコブは自分に与えられた人を騙す性格で生き、その狡さの実を刈り取りつつ苦しい人生を送りました。それ故、ヤコブは常に天に目を注いでいる以外に、毎日を過ごす過ごし方がなかったのです。

神様は全ての信仰者にこう語っておられます。

★アモス5:4 まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。」

心に貧しさがあってこそ、悲しみがあってこそ、信仰者は激しく神を求めて神のそばに近付いて行けるのです。火のような苦しみの中、神が臨在されるモリヤの山の頂上(至聖所;御座)にまで上って行ったアブラハムのように・・・。

神様に最も近付くにいる時ほど・・・、主から目を離さない毎日ほど・・・、信仰者にとって最も幸せな日々はありません。聖霊が心の奥底を熱く満たすからです。神の御許で過ごす人生が、最も成功した人生なのです。

★マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。


信徒代表のヤコブに厳しい人生を与えた神様は、私たち信徒を励まして、試練の時の過ごし方を教え、試練の中に居る時そのものの祝福を教えています。

ヤコブは、自分勝手に自分の考えで人生の道を歩んで来たようで、御霊はちゃんと神の御計画の道を歩ませ、最後の安息の中に招きいれました。人生を歩き終わってみたら苦しかったけれど、ちゃんとイエス様の十字架の道を通って御国の安息に辿り着いていたのです。

ダビデ王は、もっと苦しい荒野を通りましたが、このように言いました。

★詩篇24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。24:6 これこそ、神を求める者の一族あなたの御顔を慕い求める人々ヤコブである。

私たち信仰者は全員、神の御顔を激しく慕い求める者ヤコブの一族です。








エンディング



どちらが本当の現実か?

ヤコブは、人生で最も辛い期間である、当時17才の最愛の息子ヨセフが死んだと思ってた107才から130才まで、ヨセフが生きている事も、30才になった時にエジプトの宰相になっている事も知らずに、悲しみの毎日を送っていました。

私たちは今の段階で見聞きできる、自分の目の前にある現実が確かな現実であり、聖書の御言葉や約束は、浮世離れしている別世界の夢や幻のように感じる時があります。

しかしヤコブの一生は、私たち人間の能力で把握できる現実よりも、神の永遠から永遠に続く霊的な世界が本当の現実である事を教えています。

イザヤははっきりと私たちにそれを語った「主の御告げ」を伝えています。

★イザヤ55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。・・・ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――55:9 が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高くわたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い

 927の5

イザヤ自身が天の御座に招待された体験を持ち、自分の低き目線で見たらこの地は悪に満ちているのに、神の完全な栄光が全地に満ちているとの、神殿が揺らぐほどの確信に満ちたセラフィムの言葉を実際に聞いたからです。

★イザヤ6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

御座近くに仕える御使いが見ている本当の現実は、人間の考える現実とは違う事をイザヤは体験的に知りました。それが見えないのは、サタンの惑わしの雲に遮(さえぎ)られているからであり、私たちが神の御言葉よりも、人間の言葉や知識や知恵を信頼するからです。この二つが隔てとなって本当の現実を見る事ができず、従がって神の御言葉を信じ切る事ができません。

しかし、イエス様は言われました。
★ヨハネ 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

私たちが自分の寿命の長さの細く短い思考(思弁)の川から導き出された結論よりも、天に雄大に流れるの天(あま)の川のように永遠から永遠に雄大に続く神の御計画の川を現実として見られるように、神に対するより高き信仰(信頼)を求めて行きましょう。

どんなに自分の心の表面の感情が砂漠の砂のように揺れ動いても、決して揺るぐ事のない「岩なる神とその御言葉」の上にしっかりと立ちましょう。

ヤコブの人生で学んだように、どんな時でも神様は私たちにとって「最善」を準備なさっている「愛に満ちた力ある神」です。ですから・・・・。

★Ⅰテサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。5:19 御霊を消してはなりません








3ライン 


 ★花のライン17休憩
2013年10月4日(金)(コチラ)に続きます。「信徒代表ヤコブの職業」についてです。











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天国への地図(4)幕屋四燭台⑧「アブラハム家に見る天国への地図」








1★十字架のライン
 



・・・はじめに・・・

今週と来週の二回に分けて、アブラハム家の三代にわたる歴史を見て、聖霊の存在の意味を探って行きたいと思います。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とはよく語られるフレーズで、ウオッチマン・ニーもこの題名で厚い本を書いていますが、これは最初に、神がモーセに出エジプトを導く使命を与える時、燃え尽きない芝の中から、ご自分を自己紹介された言葉です。

★出エフプト3:6 「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

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また、この三人が、それぞれ三位一体の神(御父・御子・御霊)の象徴であるとも、よく言われる事です。

しかし、アブラハムとイサクとはモリヤの山に於いて、完全に御父と御子の十字架に於ける象徴でしたが、ヤコブの場合には、御霊の象徴ではなく、御霊の導きを受けた信仰者の生涯を表していると言えると思います。
※ヤコブの生涯に於ける聖霊の導きについては、来週に説明します。

 920び1

では、御霊を象徴しているのは、このアブラハム家三代の歴史の中で誰でしょうか?

本日は、そのアブラハムとイサクの、モリヤの山以後の歴史に於ける、聖霊の存在と役割を見て行きたいと思います。







ライン15
「アブラハム家に見る天国への地図」 


天の父は、偶像の町からアブラ(ハ)ムを呼び出し、長い年月をかけて訓練して御言葉への完全な従順を体験的に教え、最終的なアブラハムの使命である「モリヤの山」に導きました。

 920の15

アブラハムはその試練に合格し、生涯の使命を果たして、この世に於ける「安息」に入ります。
★創世記 24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

何もかもが恵まれた老後を送っていた年老いたアブラハムにとって、一つだけ気がかりがありました。それは、一人息子のイサクに、自分の故郷から良き嫁を迎えたいと言う事でした。それで、エリエゼルであろうかと推測される信頼できる僕を故郷に遣わします。

この僕が、聖霊を象徴しています。十字架の使命を果たし、復活して天に戻られた一人息子イエス様に、しみもシワもない聖い花嫁(教会)を迎える事が、御父のたっての願いです。

その使命を御父は御霊に委ね、この地上に遣わしました。この地に於いて、偶像礼拝の民でなく、無神論の人々でもなく、教会の中に御霊を遣わしました。

アブラハムの僕も、アブラハムの故郷の井戸で花嫁候補を探す事にしました。

★創世記24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。

井戸や泉は、天から来る命の水を飲む所である教会を象徴します。

天の父は、父の羊を飼う良き羊飼いであるイエス様に相応しく、羊たちに水を分け与える労をいとわない、献身の心を持った娘(信仰者)を、イエス様の助け手として結婚させたいと願っておられます。

アブラハムの僕の前に、多くの娘たち(信仰者)が井戸(教会)に水を求めて列をなして集まって来ます。この中に、自分と自分の家庭の必要の為だけでなく、旅人とその家畜の為にも進んで水を汲んでくれる心の聖い娘はいるのでしょうか?僕は祈りました。

★創世記24:12 ・・・「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。 24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

 920び4

★24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。 24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ

950の5
 
祈りが即座に応えられて聖い娘リベカを見つけた僕は、嫁ぎ先の父の家(天の御国)の富の豊かさを表す、金の鼻輪と金の二つの腕輪の宝飾品(聖霊の保証)を贈りました。

★エペソ 1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。

 950の8

リベカ(主の花嫁を象徴)は、アブラハムの僕(聖霊を象徴)に求婚(召命)をされた時、家族が十日ほど別れを惜しませてほしいと言った所、迷わずにすぐに出発する事を決断しました。

★創世記24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。

 920の10
 
神を愛する僕は、召命を受けた時に、父母を捨てて直ぐに従がって行きます。イエス様の弟子達もそうでした。

私たち人間の本当の父は天の父であり、神の御言葉に従った時に当初は寂しい思いがあっても、神に従う者の親が、結果的に不幸になるはずはありません。

 弟子となしたまえ我主よ

★マタイ 4:21 イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った

聖霊の賜物によって、受け継ぐ神の御国の素晴らしさ感じ取った時、リベカも、主の弟子達も、今の私たちも、それがどんなに価値が高いかが、御霊の感動によってわかります。リベカの家族も、アブラハムの弟子が差し出した贈り物と、リベカに与えられた金の宝飾品を見て、間違いなく幸せな暮らしが出来る事を悟り、見送りました。

★創世記24:59 そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。

私たちも、イエス様の花嫁として、イエス様の真の弟子として、心に聖霊の迫りを受けたら迷わずに、聖霊の導きに従がって行きましょう。

試練と訓練の荒野を通って、私たちイエス様の花嫁候補も、弟子達も、イエス様に相応しく聖められ、イエス様の身丈へと成長して行きます。

アブラハムの僕は、荒野を行く道すがら、リベカに嫁ぎ先の豊かさ、礼儀作法、父アブラハムと息子イサクの素晴らしさを教えた事でしょう。

私たちキリストの教会もまた、聖霊に教育されつつ、天の御国で住まいを用意して待っておられるイエス様を目指して、心の中で旅をして行きます。


 
・・・・・・・・・・・・・・・


さて、荒野を旅してアブラハムたちの家(テント)付近に着いた時、迎えに出て来たのはアブラハムではなく、花婿のイサクでした。

★創世記24:63 イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

アブラハムの、神からの使命の期間の記録としては、僕を遣わした所までで終わりです。ここからは、御子を象徴するイサクだけが前面に現れます。アブラハムはこの後に全財産をイサクに継がせて再婚し、一般の信仰者と変わらない普通の生活を送って死を迎えます。

★創世記25:8 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

 920の12

天の父も、御子を私たちの前面に立てておられます。

★ヨハネ14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです

御父は、イエス様に教会なる花嫁を迎えたら、御子と一緒にこの地を相続させ、支配を任せる計画です。

★ 黙示録5:9 「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

リベカがイサクと共にアブラハム家を継いだ様に、私たちが、生きている間に神の真の僕となり、御心のなる事を切に祈る祭司となり、キリストの従順な弟子となり、聖い花嫁として天の父を喜ばせるのであれば・・・、私たちは王の王であるイエス様と共に地を治めるのです。


・・・・・・・・・・・・・・・

出迎えに出たイサクに、リベカも気づきました。

★創世記24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、24:65 そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。24:66 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。 24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。

 Rebekah and Isaac BIBLE-1

私たちも日々、聖霊の灯に導かれ、聖霊の火で聖められつつ、天の御国の、愛するイエス様との結婚式の宴会に入りたいと思います。

 628の3








エンディング




天国への地図の狭く細い道を、イエス様だけを見つめて歩んで行きましょう。

聖霊が、粗野で幼稚であった私たちを、しみもしわもなくキリストの身丈に達した花嫁となるまでに養育しつつ、天の父の家まで導いて下さいます。

 920の3

下の図は、今週のメッセージをまとめたものです。

 920の2




3ライン 








 ★花のライン17休憩
2013年9月27日(金)(コチラ)に続きます。「イサクとリベカに生まれた双子」についてです。
 

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天国への地図(4)幕屋四燭台⑦「天国への地図に存在する二本の道」

1★十字架のライン  
本日は初めて、「天国への地図」の全貌を明らかにしたいと思います。

イエス様を唯一の救い主として信じる事が、救いの最低条件です。
世の終末までにか、個人の終末までに、主の御名を呼び求めれば
誰でも天の御国の住民となり、神の輝く命に満たされて永遠に生きます。

生涯、自分の創造主を知らず、イエス様の十字架の贖いを知らずに
死ぬ間際に神の子とされる事は、本当に感謝な事ですが・・・、
私たち人間にはこの世で生きている間に、果たすべき使命があります。

人間創造の目的は、御子イエス様に似る者となるまでに成長する事です。
その為に、私たちは神の形(イエス様)に似せて、創造されました。

神様(御父)の御心にかなった愛する子イエス様に少しでも近付いて
私たちが天国に帰って行ったら、天の父はどんなに喜ぶでしょうか?

①使命を果たして天国で報いを受ける道と、
人生の早い段階で神の子になっても成長しないまま
世と個人の終末間際に信じた人と同じに、②身ひとつで天国に入る道
二本の道が存在します。

死ぬ間際に信じても天の御国に入れるとは
なんと素晴らしい天の父の救済措置でしょうか?
なんと大きな神の愛でしょうか?
その方々の為には、天国の永遠の中で、
神に対する多くの知識を学ぶ時間がたっぷりあります。

しかし、人生の早い段階で神の子になった人が、少しでも成長しないでいるなら
本当に天の父にがっかりされてしまいます。

多くの義の衣、多くの冠、多くの御褒美、天の御座近くの座を準備して、
天の父は私たちが戻って来るのを待っておられます。

聖書全巻を通して、特に天地創造と幕屋を通して示されている
天国への二つの道を示した地図を参考に、父に誉められる方の道を選びましょう。






ライン15
・・・・・「天国への地図に存在する二本の道」・・・・

イエス様は山上で弟子たちに、人間には永遠に向かって、二つの門があり、そこから二本の道が続いている事を、教えました。

 www-St-Takla-org--78-Consider-the-Lilies.jpg

★マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。






・・・・・(1)全ての人の「天国への地図」・・・・

この御言葉を広義に捉えると、全ての人間は死後に、狭い道を歩んで天国に行くか、広い道を通って地獄に行くしかないと言う意味になります。

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もし、人間が一度限りの生涯であり、死んでしまえば完全に無となってしまうのであれば、まだ救われていない家族や友人知人の将来を思うクリスチャンの胸中は、ある意味でどんなにか穏やかでしょうか?

しかし聖書には、全ての人間の霊魂は永遠に存在して、裁きの時を迎える事がはっきりと記されています。

★ ヘブル9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・

私たちの肉体の死は、聖書で言う「第一の死」であって、肉体が滅んで土に帰るだけで、霊魂は最後の「白き御座の審判」で裁かれます。

 白い御座の裁判

使徒ヨハネは、パトモス島で未来に起こる事の幻を見ました。その中で、全ての人間が立つその御座の様子を見ました。

★黙示録20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

そこでは、私たちの生前の言動が記録された幾つかの行いの書があると記されていますが、そして私たちの行いに従がって報いを受けますが、最も重要なのは私たちの名前が「いのちの書」に書かれているかどうかです。

神様の高い基準で観ると、全員罪人であって永遠に裁きを受けるべき私たちは、イエス様の十字架の贖いによってのみ全ての罪や汚れが聖められて、神の子として永遠の命をいただき、天の御国に入る事ができます。

その最低の基準は、私たちがイエス様を唯一、真の救い主として信じる事です。イエス様を救い主として心底から頼った者は、神の子とされてその名が「いのちの書」に記録されます。

イエス様を救い主として信じる人が、天の御国に繋がる狭く細い道に入った人です。今はまだ、この狭い天国までの道に入る人は少なく、イエス様を知らずに広い道を歩んでいる人々が多いのです。

「神の国と神の義」である「幕屋」の入口の門である「救いの門」は、約10mあって、この世の中に向かって大きく開かれています。しかし、この世全体から見ると、亡びに向かう門は大きく、その道は広く、そこに向かっている人は圧倒的に多いのです。





・・・・・(2)「天国への地図」信仰者にとって二本の道・・・・

しかし、この二つの門と、二本の道のメッセージは、実際には一般の方々に語られたのではなく、そこに群集がいたとしても、弟子達に向けて語られました。

信仰者である神の僕、キリストの真の弟子でありたいと願い、聖い花嫁であろうとしている私たち信仰者に向かって、①天の御国に於いて冠を受け、多くの報いを受け、天国の宴会でアブラハムたちとご馳走に与るのか・・・、又は②天国に身ひとつでやっとやっと入って、宴会の外に出されて「歯噛み」をして信仰の生涯を激しく後悔するかの、二つに一つの道が存在する事を、イエス様はこの地におられる間に語っておられます。

イエス様は、神を信じ、神の僕、主の弟子であると自分で思っている私たちに向かって、天国で二通りの評価がある事を頻繁に語られました。

  身一つで天国に入り歯噛みをする広い道  狭き道を歩んでほめられる信仰者
心のチャペル012天路歴程_ppt
“Coco Cha”  http://riversidechapel.blog.fc2.com/  ©megu

天国に入れないのではなく、天国に入った時に、後悔する信仰者の方が多いと様々なたとえ話をされて教えておられます。

下記は、私たちに与えられた賜物を、神と人との為に充分に活用したか、しなかったかの「タラントのたとえ話です。ここでも天国に入った信仰者が、自分の人生を振り返って後悔し、歯噛み(歯ぎしり)をするほどに悔しがっています。 

 913の2
http://ce.ag-j.or.jp/i_pictureroll.html

最も如実にその真理を説明しているのが、十人の乙女の話です。

天国には入る事ができても、花婿キリストと教会の結婚式の宇宙で最大の宴会に、入る事ができなかった信仰者が存在し得る事が明記されています。

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韓国のT牧師はメッセージの中で、宴会に招かれなかった信仰者は、宴会のボーイやウエイトレスをするのではないかと、ユーモアを交えて推測していましたが、天国でそれぞれの信仰者の生涯が、良かったのか悪かったのかをはっきりと評価される事は確かな事です。

 913の4

そして個人への評価は、個人の終末か、世の終末で決まってしまいます。ノアの方舟の時に神がされた虹の約束は、一般の人の救いの門の閉じる時だけではなく、私たち信仰者のに対する永遠の中での評価が決まる「恵みの日」の締め切り日です。





・・・・・(3)キリストの幕屋を通る道・・・・

その為にどう生きて行くべきかを、天地創造の七日間を通して、幕屋の三部分と七つの器具を通して、そしてイエス様の生涯の歩みを通して、聖書ははっきりと示しています。

上記の「天国への地図(天路歴程)」の二つの道の部分を拡大しました。

新生の段階、十字架の血によって救われて贖い出され、洗礼を受けた段階に於いて、広い道を進んで天国に行くか、狭き道を歩んで天の高きに行くかの分かれ道が存在します。人生のどの場面でも、狭き門より狭き道に入る事ができます。どちらを通っても天の御国には行けます。

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左の道が、救われて永遠の命を得、いのちの書に名前が記されている信仰者が通る、広い道です。

右側は、同じくいのちの書に名前が記されている同じ信仰者ですが・・・、生きている間に、イエス様の身幅だけの狭い道を、イエス様の後だけに従がって、真直ぐに天の御国の高き所に通じる十字架の道を歩んだ信仰者の狭い道です。

 906の2

十字架の道とは、幕屋の道です。聖所に入る事です。聖所の入口で御霊を受け、その御霊に従がって行く事です。天国に向かって真直ぐに続いています。

 906の15

聖所の入口には五本の柱があって、その柱のサイズが記されていないのではっきりとわからないのですが、祭司たちが聖所に入る為に入ろうとする時、通り抜ける事のできる五本の柱の間は推定60-70cm内外の狭さです。そこから入るように、そこを歩み続けるようにと聖霊は常に私たちを導いておられます。その幅は、ちょうど飛行機のエコノミークラスの通路のように、大抵の体格の人ひとりがやっとやっと通れる程の狭さです。

※千利休は、茶室の入口をマタイ7章の「狭き門」を参考に造ったそうです。幕屋の聖所の入口をも念頭にあったとすれば、その信仰の奥深さに驚きます。

祭司や大祭司が、聖所の狭き入口より、幕を持ち上げてへりくだって入ったように、茶室の入口は狭く低くなっています。そして茶室に入る時には、全ての自分の持ち物を、どんなに高価なものでも外に置いて入らなければなりません。武士でさえも刀を外に置いて入る決まりでした。

 913の6
http://www.youtube.com/watch?v=LbdYOPNN2Mg

それと同じように、私たちは聖所に入る時に、私たちの思う願いを遥かに超えて素晴らしい未来を準備しておられる神と御言葉を信頼して、自分のこだわり、面子、計画、名誉、財産、自慢・・・・の全てを捨ててしまいましょう。

そして祭壇で義の衣である白い服を着ていてなお、数歩進んで砂や土で汚れた手足を洗盤で洗い聖め、聖所の狭き門にいる前に、祭司(神の僕・主の弟子)としての聖霊の力の衣を着てから入るのです。

一方、広き道を歩いている人たちは、救われてなお、自分の肉の思い(思弁・善悪を知る知識・人間の考える幸せ・神よりも遥かに低い価値観・・・・)を持ったまま歩んでいます。しかし、聖霊は細き御声で、肉の思いを全て死なせて御言葉に生きるようにささやき続けているのですが・・・。

右側の狭き道を歩む信仰者こそ、イエス様の幕屋を着る事を目指して、天より降った聖霊の衣を着、聖霊の油を切らさずに、その細き御声に従がって、試練と訓練の荒野(聖所)を通り抜けた信仰者の生涯です。天に於いて冠や報いを受け、御座近くの座に招かれ、宴会に入ってごアブラハムたちと共に馳走に与り、王の王である主と共に、地を治めるのです。

私たちは、天の御国に着くその日まで、どんなに厳しい試練と訓練の荒野を通ったとしても、涙を拭いつつ、イエス様の身幅だけの狭き道を、最も高き報いを目指してイエス様の後だけに従って行きましょう。

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★黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

 





エンディング




♪聖歌581番 「したいまつる主の」 


アルバム「愛する主のあとを」より  バリトン吉田浩  ピアノ吉田万代

1.したいまつる主の みまねきあるいま
十字架にないゆかん あいする主のあとを

※(繰り返し)
いずくまでもゆかん いずくまでもゆかん
いずくまでもゆかん あいする主のあとを

2.ちしおまじるあせ ながしいのる主の
ゲッセマネにもゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

3.うたれののしられ はずかしめうく 
ひとまえにもゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

4.きみのみめぐみに ひたりしわがみは
さかえのぞみゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

オルガンの伴奏のみはコチラ


3ライン 



  ★花のライン17休憩

2013年9月20日(金)(コチラ)に続きます。
「天極への地図での聖霊の役目」を、イサクの嫁取りからお話しします。
 

| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(4)幕屋四燭台⑥「聖霊の衣は何処で着るか?」


本日は、2013.8.2コチラより始まった、燭台(聖霊)のシリーズ六回目です。

天地創造の七日間と幕屋の七つの器具が・・・、キリストの生涯、出エジプトの歴史、信仰者の生涯・・と対応している事を検証している「天国への地図」のシリーズは、コチラから始まっています。






1★十字架のライン

私たちを愛して神の子・神の民とする為に御子を捧げて下さった
御父の愛に応えて・・・、

私たちの罪の贖いの為に十字架で死んで下さった
イエス様の御犠牲に応えて・・・、

私たちを天の御国にまで連れ上ろうとし、
そして、私たちが天の御国で御父から冠を受けるまでに
神に喜ばれる人生を歩ませようとしておられる
御霊の尊き導きに応えて・・・、

私たちは生涯、三位一体の神様を喜ばせる為に生きて行きましょう。

★Ⅱコリント5:15 キリストがすべての人のために死なれたのは、
生きている人々が、もはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。


本日は、神の真の僕・キリストの真の弟子として仕える為に
「聖霊の力の衣を着せていただける」と言うお話しです。

何時・・・? 何処で・・・? 何処から・・・? どのようにして?
 





ライン15
「聖霊の衣は何処で着るか?」

天地創造の七日間」と「キリストとしての幕屋」を注意深く見る事によって
このテーマの真理は、明確にあぶりだされて来ます。

「幕屋」は、十字架上のイエス様の姿であり
十字架の三日間で建て直された生きた宮(神殿;教会)であり
生涯の順序をも表しています。

イエス様ご自身が、十字架の三日間で
幕屋の七つの器具の全てに血を塗られ
「生ける宮;生ける神殿;生ける幕屋;生きている教会」となられました。

復活されて天の御国に入られて、生涯としての幕屋を完成させ・・・、
・・・そしてまた、救いの光としてこの世に来られ、天の安息に入られたと言う
天地創造の七日間の行程も、全うされました。

それゆえに十字架から生み出された私たちの「体」も「幕屋」であり、
私たちの信仰生涯もまた「幕屋」です。
これを覚えていただけると、本日のテーマがわかりやすいかと思います。






・・・・・(1)聖霊の力をせられる迄エルサレムに留まる弟子達・・・・

ルカは福音書の最後で、 自身が書いた使徒行伝の1.2章とその後を次のように短くまとめています。

★24:46 (イエスは)こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。 24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた

ここに「着る」と言う、献身者にとっての重要な聖霊の役割を示す表現があります。

 906の4

オリーブ山の頂上で、復活されて多くの人々に会ったイエス様が、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 と、仰られました。」

 906の5
 
その後、天に帰られたイエス様を見送った弟子たちが、呆然としていると・・・・、

 906の6

御使いから、もう一度イエス様が同じ姿で来られる事を聞いた弟子達は、ルカの福音書によると、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、イエス様の仰っていた聖霊の力を着せられるまで、エルサレムに留まって心を合わせて祈りました。

 906の7
http://ce.ag-j.or.jp/guide/2012/0527.html
 
イエス様の弟子たちが、共に留まってただひたすら祈っているとは何と麗しい光景でしょうか?

そして、弟子達の頭上に、いと高き所(天)から火のバプテスマが降りて来て頭上に留まりました。

 906の8

その時に、実質的には弟子達は聖霊の力を着たのです。

★ルカ24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

聖霊は、イエス様が天に帰られたこそ、天から御父が降らせて下さいました。聖霊のバプテスマを受けると言う事とは、天から落ちて来たイエス様の力である衣(御霊)を着せられたと言う事に他なりません。





・・・・・(2)エリヤからエリシャへ神の力の衣をバトンタッチ・・・・

その重要な真理を象徴しているのが、エリヤが天に帰る時の様子です。

 906の12

師のエリヤが火の馬車に乗って天に帰る時、そのを下にいた弟子のエリシャに向けて落としました。

エリシャは、その衣を拾い上げた時、エリヤに宿っていた神の力を受けて、その直後から偉大な神の働きを取り次ぐ事ができるようになりました。

神の為の働きに入るには、私たちは必ず力ある聖霊の衣を受け取らなければなりません。





・・・・・(3)イエス様も、公生涯に入る前に聖霊のバプテスマ・・・・

神の御子であられるイエス様でさえも、洗礼を受けた直後、天から降りてきた御霊に満たされて、神の働きに入りました。

※私;福田は、このイエス様の頭上に降りて来た御霊は・・・、そして旧約時代の御霊は「御父の御霊」であり、弟子達と私たちが受けるのは「キリストの御霊」であると区別できるのではないかと感じています。

 908の10

そして、出エジプトをしたイスラエルの民もまた、小羊の血によって贖い出され、紅海で洗礼を受けた後、御霊の火の柱に導かれて荒野に入り、天の御国の安息を象徴する「カナンの地」まで導かれました。

ある方がメッセージで、荒野の民を導く柱の本体は、夜に見えている神の御霊のであって、昼間は明るいので雲の柱として見えているが、火の柱である事には夜も昼も変わりないと仰いました。

私たち信仰者の生涯は、神の臨在が聖霊の火の柱となって、力強く導いておられるのです。私たちの肉の目にはそれが見えていませんが、心の目でしっかりと「聖霊の火」の存在を見つめ続けて行きましょう。

 906の11
 
イエス様も、洗礼を受け、聖霊のバプテスマを受け、その御霊に導かれて試練と訓練の荒野に入り、十字架で垂幕を裂いて、復活し、天の御国の安息に入ったのです。

出エジプトの民も、私たち信仰者も、洗礼を受けた後に、御霊に導かれて荒野に入るのです。イエス様は、その道を私たちへのお手本として示しました。

もちろん、聖霊の存在なくしてはイエス様を救い主として、信じる事はできません。

しかし、牧師、伝道師、宣教師の働きに入る時には、必ず神の御前に座り込み、ペンテコステの日までの弟子達のように、天から来る御霊の火を求める必要があります。

教会の奉仕者だけでなく、神様の御前にへりくだり、真の弟子として、とりなしの祭司として、聖い花嫁として献身の心を持っている信仰者の全ては、御父に喜ばれる聖い生涯を送る事ができます。

★ダニエル 10:12 彼(受肉以前のキリスト)は私(ダニエル)に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。」

一般の信徒だからと言って遠慮せずに、天に行った時に冠を受け、小羊の宴会にアブラハムたちに肩を並べて出席し、御使いたちの前でほめられ、多くの報いを受ける事の出来る人生を共に歩みましょう。

その為に最低一生に一度は、時の経つのも忘れて神の御前に静かに座し、天よりの特別な力を受け取る時を持ちましょう。大きな確信を得るまでは、何度も挑戦して下さい。





・・・・・(4)大祭司が聖霊の衣を付ける位置・・・・

真の大祭司であるイエス様が、洗礼を受けて、公生涯に入られる前に、天よりの御霊を受けられました。

この地上の人間の大祭司たちもまた、装束を身にまとう所は、なんと洗礼を示す「洗盤」と、この地に於ける神の働きに従事する期間を象徴する「聖所」の入り口の間でした。聖所での務めに入る前に、装束ました。

 802の4

★レビ16:3 アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、 16:4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだにを浴び、それらを着ける

※幕屋での大祭司の働きの順序が、器具の並びに添って、祭壇⇒洗盤⇒(装束)⇒聖所(パンの机・燭台・香壇)⇒詩聖所であるように、イエス様の生涯も、私たちの信仰生涯も、幕屋の器具の順序、天地創造の七日間の順序に添って、天の安息に向かっているのです。

聖所は、試練と訓練の荒野を表し、私たちの信仰の礼拝生涯を表し、神の僕・キリストの弟子にとっての主の働きに加わる期間を表します。その聖所に入る前に注がれた「聖霊」によって、イエス様も、イエス様の弟子の私たちも導かれてゆくのです。

906の15

天地万物を造られた神は、驚く事に、なんと全て(天地創造の順・幕屋の器具の順・イエス様の生涯・信仰者の生涯を象徴する出エジプトの歴史・・・)を、天地万物と人間を造られた神の最終目的(生きていては心の中での御国の安息・体が死んでからは天の御国での安息)を目指して、順序よく導いておられるのです。

※上記のイエス様の生涯を、「キリストの幕屋」の横軸として。下のエンディングの図の左側を「キリストの幕屋」の横軸としての十字架上のキリストの身丈と捉えて下さい。






エンディング



最低限、御国に入れていただくだけでなく、神の僕としてその生涯を通して神に喜ばれる道を歩むには、イエス様の身丈に至り(ガラテヤ2:20)、イエス様の身幅だけの狭い道を、イエス様の後だけに従がって真直ぐ御国まで付いて行くしかありません。

下記の二つの御言葉は、キリストの幕屋と聖書の全ての箇所を照らし合わせて初めて理解する事ができます。

★ローマ 13:14 主イエス・キリストをなさい。

★Ⅱコリント 5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

私たちが弟子として幕屋(キリスト)を着る事とは、イエス様の身丈としての縦軸と、イエス様の生涯の歩みを横軸として、それに自分の人生を当てはめて行く事です。

 906の9

※十字架上のキリストが幕屋であった事の証拠(ヘブル9:21各器具に血)
①祭壇(足)釘 ②洗盤(腹)やり ③パンの机と④燭台(両手)釘 ⑤香壇(心)前日ゲッセマネの園で血の汗⑥契約の箱と⑦贖いの箱(頭部)茨の冠



3ライン 










 ★花のライン17休憩
2013年9月13日(金)(コチラ)に続きます。
「天国への地図の全貌」より、「天の御国に入る二つの道」です。

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