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2013年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年02月

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垂幕②「天と地の境で得る勝利」

 
1★十字架のライン
 

ライン15
「天の栄光と地の境目垂幕」 

 BeyondVeilArk.jpg

イエス様は、十字架に付けられる前、ヨハネ17章に於いて「大祭司の祈り」を捧げました。
天と地の境目である垂幕を裂く事、十字架で肉を裂く事が、栄光への扉でした。

★ヨハネ(Joh) 17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、
わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

★John 17:5 And now, O Father, glorify Me together with Yourself, with the glory which I had with You before the world was.


十字架(肉を裂く事)とは、サタンに勝利する為の唯一の方法です。

イエス様は十字架の前夜、ゲッセマネの園での祈りの時に、心を裂きました。
(心の殉教)

★ルカ(Lk) 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように地に落ちた。


そして十字架の当日午後三時過ぎに息を引き取られた時、
贖罪の使命を完了され、新しい契約の時代に入り、
復活をもって完全にサタンのもたらせた死に打ち勝ち
勝利されて、栄光に入られました。
(体の殉教)

★マタイ(Mt) 27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた


本日は、私たち信仰者が垂幕を裂いた時に得る勝利と栄光についてです。


 
 





・・・・・(1)「勝利を得る者」・・・・

クリスマスに肉をまとって天より降りてきてくださったエス様は、十字架上で私たちの罪を贖う為に聖き血を流し、死んで三日目に復活し、霊の体となられました。

朽ちる肉を死なせたからこそ、朽ちない霊の体を着て私たちの初穂となって下さったからこそ、死に打ち勝ち、サタンに全き勝利をして下さいました。

★Ⅰコリント(1Co)15:54朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

そして、イエス様は十字架上で既に勝利を得て、私たちに安心して従がって来るように言っておられます。

★ヨハネ(Joh)16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 131び5
 
 
天の父は、聖かったけれど幼かったゆえに、サタンに騙されてこの世に降ろされた人類が、様々な体験をとおして、御言葉の真実を理解し、サタンの吹き込んだ肉の思いと言動を十字架につけて勝利し、天国に帰って来る事を望んでおられます。

 




・・・・・(2)七つの教会へ「勝利を得る者」・・・・

右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方イエス様が、七つの教会それぞれご注意をされた後、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と、勝利を得る者(who overcomes)」に与える報いを語りました。

どれもが、素晴らしい報いです。この報いを得るために、私たちはこの地上で生きて行きましょう。こんなに素晴らしい報いがある理由は、勝利を得る者を天の父が喜んで下さるからです。

★Revelation2:1 These things says He who holds the seven stars in His right hand, who walks in the midst of the seven golden lampstands

7-golden-lampstands.jpg


 
①エペソ教会へ(the church of Ephesus)

131の11

★「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」



②スミルナ教会(the church in Smyrna)  

131の12

★「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」
 


③ペルガモ教会へ(the church in Pergamos) 

131の13

★「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者の他はだれも知らない、新しい名が書かれている。」



④テアテラ教会へ(the church in Thyatira)

131の14

★「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。」
 


⑤サルデス教会へ(the church in Sardis)

131の15

★「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」



⑥フィラデルフィヤ教会へ(the church in Philadelphia)

131の16

★「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」  



⑦ラオデキア教会へ(the church of the Laodiceans)

131の17

★「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」









・・・・・(3)勝利を得る霊的礼拝・・・・

★ローマ12:1 兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 131の2

イエス様こそが、十字架前夜にゲッセマネの園で、十字架の日に十字架上で真の「霊的礼拝」を捧げました。

 131の3

イエス様の身丈に達する事とは、そして勝利して天の領域(栄光)に入る事とは、体の命が死ぬか、魂の命(プシュケー)が死ぬかです。そのラインはイエス様の頭部の下にあり、そこは垂幕にあたります。

 131び4
※左クリックで二段階に大きくしてご覧になれます。 
 
私たち先に救われた者は、上記の下の「救いの段階」に留まって生涯を終わってしまわず、毎日心の殉教をして垂幕を裂き、「キリストの身丈」へと成長し続けて行きましょう。











♪賛美♪
・さあさんびしよう
・グローリーハレルヤイエス勝利
イエスは勝利を取られた

 








 エンディング

勝利を得た者に与えられる「白い石」について

ペルガモ教会への手紙の最後に、「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者の他はだれも知らない、新しい名が書かれている。」とあります。

★Re 2:17 "He who has an ear, let him hear what the Spirit says to the churches. To him who overcomes I will give some of the hidden manna to eat. And I will give him a white stone, and on the stone a new name written which no one knows except him who receives it."

隠れたマナについては、次回「契約の箱の中のマナの壷」で説明いたしますが、「白い石」については前回の「新しい契約の時代」と大きな関係があります。

なぜなら、天からの御言葉が心に直接記される新約時代の私たち信仰者にとっては、表面に現れる麗しい善行の動機が天の御国から来たものであれば、行いも心も真っ白いと認められるはずだからです。

白い石」が表面も中身も白いのですが、イエス様はパリサイ人達の偽善に対して、「白く塗られた墓」であると叱責しました。

 131の25

★マタイ(Mt)23:27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、23:28 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

古い契約の時代は、下記のイラスト(垂幕を半分消して至聖所の様子が見えるようになっている)で見るとおりに、垂幕が閉ざされていて、至聖所内の契約の箱の中に納められている十戒の板とは、遮断されています。

 131の23

人間を造った神様は、心の奥底までを見られるお方なので、真実の信仰とは程遠い宗教者達の自己義認と偽善に対して、怒っておられます。

★Ⅰサムエル (1Sa)16:7 「うわべを見るが、主は心を見る。」

私たちの心が天に向かっていて父なる神を見つめていて、イエス様のぶどうの枝から直接に生ける命の水の川から飲んでいれば、私たちはこの地に天からの水を流す事ができます。

旧約時代には、肉から(目から耳から)入った律法を肉で考えて実行しましたが、失敗に終わりました。(下記左側)

しかし、今の新約時代には、垂幕が裂かれているので、天からの神の御言葉が霊の所に宿り、私たちの心の殻(垂幕)が悔い改めて裂かれてさえいれば、心に記され、聖霊の力によって、私たちの体が通路となり、世に流れてゆくのです。

 131の8
 
★ローマ(Rm)8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

聖霊に頼って、いのちと平安の中に毎日入りましょう。自分の努力では出来ません。私たちは毎日肉の思いを十字架に釘付けて死なせ、聖霊を待ち望むだけです。パウロは体への迫害を受けつつ、日々心の殉教も捧げて、キリストの身丈へと日々迫って行きました。

★Ⅰコリント(1Co) 15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

★ガラテヤ (Ga)2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。


イエス様の教えに忠実に歩み、勝利を得、栄光を見せていただきましょう。

★ヨハネ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのち(魂の命)を愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 

★John 12:24 "Most assuredly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the ground and dies, it remains alone; but if it dies, it produces much grain.12:25 "He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life.


★黙示録21:6 「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

★Re21:6 And He said to me, "It is done! I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. I will give of the fountain of the water of life freely to him who thirsts.21:7 "He who overcomes shall inherit all things, and I will be his God and he shall be My son.


 







 ★花のライン17休憩
2014年2月7日(金)コチラに続きます。
至聖所の①「契約の箱の中のマナの壷」についてです。
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| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天国への地図(6)垂幕の意味


初めて「心のチャペル」をお読みになる方の為に
最初(2013年1月)からのメッセージのダイジェストを、まとめています。
現在、シリーズⅠ「生ける宮」2014.1.1 のダイジェストと
シリーズⅡ「キリストの岩」2014.1.2コチラa_new6.gif
完成しています。






1★十字架のライン
 


ライン15
「垂幕と新しい契約」 
エレミヤ31章には、重大な予言(主の御告げ)が記されています。 

人類に新しい契約の時代が訪れる事
そして、律法が人々の心に直接記される事です。


 
★エレミヤ31:31 見よ。その日が来る。

――主の御告げ。――
その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、
エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。

――主の御告げ。――
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。

――主の御告げ。――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、
おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ

――主の御告げ。――
わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」



その日は何時訪れるのでしょうか?

イエス様のご生涯と幕屋に、深く関係があります。

holy_of-holies.jpg
 



 


・・・・・(1)新しい契約が確立したその日・・・・

この場合、古い契約(旧約)とはモーセがシナイ山の頂で神様から受け取った「十戒」を初めとする「律法」の契約の事です。ノアともアブラハムとも麗しい契約を結ばれましたが、それらは現在でもずっと有効です。

神様は、イスラエルの民を神の民とし、自らが彼らの神となる夢(御心)を実現する為に、先ずはシナイ山の頂にてモーセを通して「律法」と神の住まい「幕屋(神の国と神の義)」とを民に与えました。

★出エジプト9:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。

しかし彼らは、自分の力で神の律法を守る事は出来ませんでした。人間は肉の努力によっては、律法を守る事も、神に近付く事も、天の国に帰る事もできない事を、深く知るための「律法」であり、古い契約であったからです。

それは、私たち人類の最初の人アダムが神の一戒を破って罪を犯し、その罪が隔ての門となり、閉じられた門となって、神との間がふさがっていたからです。そして、その隔てを自分たちの行いや努力では、突き崩す事ができませんでした。

★イザヤ59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切り(垂幕:天国の門)となり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

アダムが作った神と人間との仕切りを開放し、天国への堅く閉ざされた門を開いてくださったのは、イエス様の十字架の血による罪の贖いです。

 124の7

その十字架の日が、イエス様が息を引き取られた瞬間が、時を同じくして天から裂かれた垂幕(隔ての仕切り;天国への門)が、エレミヤ書31章の「新しい契約(新約)時代」の始まりです。

その」とは、AD33年(推定)の十字架の金曜日です。

 124の13


★ゼカリヤ 3:9 ――万軍の主の御告げ。――わたしはまた、その国の不義一日のうちに取り除く  






・・・・・(2)心に記された律法・・・・

それでは、エレミヤが取り次いだわたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるすわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。」とは、どう言う意味でしょうか?

使徒パウロもイエス様に出会った後、使徒たちに教えを請わず、アラビアの荒野に退いて天から直接に御国を学びました。

★ガラテヤ 1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

心に記されたとは、私たちの霊の所に神の律法が置かれた事によります。

旧約時代の契約の箱には、「十戒の板」が一対入れられておりましたが・・・、至聖所の垂幕は堅く閉められておりました。
※下図は、様子がわかるように垂幕が一部開いていますが、通常はしっかりと閉められていて、聖所の香壇からの祈りの煙は、直接には御座を表す契約の箱には届いていません。

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一方、十字架以後の垂幕の開かれた至聖所の中には、旧約時代には聖所にあった「香壇」が至聖所に入っており、契約の箱には、三つのものが入っていて、一つ目は「十戒の石版」です。

★ヘブル 9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

十字架以後は、聖所にあった三つの器具のうち、香壇は聖所の中に入っています。イエス様の十字架で垂幕が裂かれたので、祭司も大祭司も、御座を象徴する契約の箱の蓋の上に、直接祈りの香の煙を立ち上げる事が可能になりました。

9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、①マナのはいった金のつぼ、②芽を出したアロンの杖、③契約の二つの板がありました。9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。 

旧約時代は、十戒の二枚の石版(二度目に神に書いていただいた)は、シナイ山に於ける最初の幕屋建設の時、契約(あかし)の箱の中に入れるように、神様からの指示がモーセにありました。

★出エジプト 25:10 アカシヤ材の箱(契約の箱)を作らなければならない。・・・25:16 わたしが与えるさとし(十戒の石版)をその箱に納める

旧約時代のモーセ達は、神様の命じた通り、十戒の石版を契約の箱のに置き、芽を出し花をつけたアロンの杖とマナの入った金の壷は、箱のに置いていました。

★民数記 17:10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」

★出エジプト16:32 モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」16:33 モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」16:34 主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた

しかし、十字架後のヘブル書では、契約の箱の中に三つとも入っています。

 131の1
 
契約の箱の移動の際に、まとめて箱の中に入れて運んだ事を、ヘブル書の著者が書いたのであるにすぎないとの見解があり、また香壇が至聖所に入っているのも誤りであるとの説があります。

しかし、聖書は誤りのない神の言葉です。十字架後、垂幕が裂かれて香壇は至聖所に入り、天の御座の前に直接、香壇の祈りの煙を、立ち上げる事が可能となりました。

そして、①十戒と②マナの壷と③芽を出したアロンの杖もまた、いまの時代には契約の箱の中に入っているのです。

幕屋も神殿も、私たち生ける宮(教会)の姿を教える象徴物ですから、十字架上のイエス様の頭部に当る「死聖所の契約の箱」は、キリストの身丈に至った私たちの頭部に当り、そこは「霊」の所で、その至聖所のなかには天の御座を象徴する契約の箱の贖いの蓋「御座」が、聖霊によってあるのです。

その「霊」の所に、「十戒の石版」があるのですから、エレミヤ書31章の記した通り、私たちの心の奥底に聖霊によって「十戒」の教えが直接書き込まれ、私たちは文字を見る事によってでなく、心の奥に直接神様の指で書かれた教え(聡)があるので、それに従がって生きる事ができるのです。

★エレミヤ 31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」


私たちと神様の間にある「罪咎の隔て」が、十字架によって取り除かれ、罪が赦されて神に近付く事が可能になったので、聖霊によって霊の所に、神様に対する知識、神様からの教えが直接与えられるのです。

使徒パウロもこのように言っています。

★ローマ 2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。2:14 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

 124の14
★ten_commandments

霊の中に神の御心を知る新しい契約の時代を生きる私たちは、霊の中から語られる神の御言葉通りに生きましょう。

★Ⅱコリント3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく御霊に仕える者です。文字は殺し御霊は生かすからです。

3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう


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★Ⅱコリント 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちの霊の中におられるイエス様の後だけに付いて、イエス様の栄光の姿に変えられつつ、御国にまで歩んで行きましょう。









 ★花のライン17休憩

2014年1月31日(金)コチラに続きます。
垂幕の②「新しい契約時代の、勝利を得る祭司」についてです。



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天国への地図(5)香壇⑥「聖所のまとめ」 



初めて「心のチャペル」をお読みになる方の為に
最初(2013年1月)からのメッセージのダイジェストを、まとめています。
現在、シリーズⅠ「生ける宮」コチラのダイジェストと
シリーズⅡ「キリストの岩」コチラa_new6.gif
完成しています。





1★十字架のライン

 
ライン15
「聖所とは?」 

聖所5
「燭台(聖霊)」    「香壇(祈り)」     「パンの机(御言葉)」

イエス様が、私たち人間に天国への道を示す為に、この世に救いの光として降りて来られ、30才になるまで普通に暮らされた後、罪も汚れもないのに洗礼を受けられ、その直後に天からの御霊の衣を着てから、使命であられる聖所に入られました。

聖所の中は、御言葉が満ち、聖霊が満ち、父の御心を祈る祈りが満ちている所です。

イエス様はここで三年半・・・、
御言葉の通りに忠実に生き、御言葉を伝え
聖霊の導く道に従い
日々、肉の思いを裂いて天からの思いの実現を祈って過ごされました。

私たちは、このイエス様の歩まれた天にまで通じる道を毎日歩む事によって、真の弟子、父の御心を祈る祭司、聖なる主の花嫁となる事ができます。

十字架前夜のゲッセマネの園でのイエス様の祈りは、最初は天の父の子供として御前に近付き、肉の思いを祈りますが、肉の思い(一粒の麦;プシュケー;魂の肉の命)を十字架に付けて死なせて「神の御心」の成就を祈り求め、サタンから圧倒的な勝利を得ました。

★ルカ 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

そして、私たち弟子に、命令されました。

★ヨハネ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのち(魂の命)を愛する者はそれを失い、この世でそのいのち(魂の命)を憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。







・・・・・(1)信仰生涯の中で・・・・

イエス様の私たち(祭司・弟子・花嫁)に対する信仰生涯の見本は、十字架の道です。

聖書には、様々な段階の信仰者に対する教えがありますが、最も高いレベルは、イエス様の十字架の道の教えです。肉の思いを十字架に付けつつ、日々を歩む人生です。

★マルコ8:34 それから、イエスは群衆弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。8:35 いのち(魂の命)を救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのち(魂の命)を失う者はそれを救うのです。

イエス様は、この世に生きている間には、肉の心を死なせるようにと命じました。ゲッセマネでの祈りの翌朝には捕らえられて、十字架上で体の命を捧げましたが、前夜は心の命を捧げました。

 117mp1

イエス様の体の命が十字架で死んだ(垂幕を裂いて体の殉教)時、復活の霊の体となって天の御国(至聖所)に帰りました。私たちが毎日、心の命を死なせるのなら(心の殉教)、私たちの霊魂はイエス様の身丈(至聖所の契約の箱が頭部)へと成長するのです。

イエス様が使命を受けた働きの場所である聖所の三年半の日々、十字架前の夜だけでなく、毎日肉の心を十字架に付け、父の御言葉に従い、完全に御霊に導かれるままに、完全に従いました。

★ヨハネ 5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」 
★マタイ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

イエス様は神の子だからではなく、毎日肉の心を死なせて、神の御言葉を完全に守ったので、この地に居て霊魂が神の御国を見ていましたし、慰めや力を御国から得ていました。

体が死んだら霊の体が与えられ、天の御国に住むと同じく、心の自己主張が死んだら、心の奥底にある御国を味わう事ができるのです。

★ルカ 17:21 「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」




 

 
 

・・・・・(2)着地点(夢)を何処に置くのか?・・・・

イエス様の敷かれた十字架の道を歩もうと決意した時、何処に着地点を定めるのかは重要です。

十字架上でイエス様が息を引き取られた時、至聖所への垂幕が裂けましたが、私たちはその至聖所の中に、この世での歩みの終着点を定めているでしょうか?

45至聖所

聖書の御言葉の言う通り、什一献金をする信仰者はたとえ贅沢が出来なくても、一生の間生活費に困る事はありませんし、祈り求める時に病気も癒されると約束されているし、寂しい時に天からの慰めも受けますし、困った時に道を開いて下さる愛の神様が私たちと共におられます。

しかし、この世の栄誉や富、欲しかった何かの立場や物を受け取る時、そこが自分の最も求めている最終地点であったかどうかを、聖霊に御言葉を照らしてただいて、知る必要があります。

私たちの何かを求める熱心が、自分自身の欲から来ているのか、幼い日からの心の傷から来ているのか、自分自身の存在価値を自他に知らしめる為に求めているのかを、はっきりと知る事が肝心です。神様の為に生きているように見えて、その中に、自分の栄誉を忍ばせてはいないでしょうか。

★ガラテヤ 6:14 私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

もし私たちが、十字架につけられたイエス様以外に、目標とするものや誇るものがあったとすると、一生を終えた時に空しいものが残ります。それは、まさか自分の中にはないと思っていた「自分自身への偶像礼拝」です。イエス様だけを見、イエス様だけに従がって行かなくては辿り付かない場所が、私たちの終着地点であるべきです。

そこは、この地の聖所の中ではなく、垂幕(体、又は心の殉教)を裂いて入る所である霊の中にある「至聖所」で、父なる神と御子の御座の前です。

★ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び神の御座の右に着座されました。

熱心に祈り求めて、十字架以外のものを得て誇って「自分の人生はこれで万事良し」としたら、それはこの世での終着点であり、この世の人々と何の変わりもない滅び行くこの世での栄誉です。信仰者がここを終着点としては、御言葉の約束により裸一つで御国にようやっと入る事はできても、信仰人生は失敗です。

★ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい

★Ⅰテモテ 6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように


私たちは、自分自身のこの世に於ける夢ではなく、天の父が人間を創造する時に持っていた「イエス様の身丈に達した人間」の幻を・・・、

★創世記1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

・・・我が夢、我が幻、我が願い、我が目標、我が終着地点と定め、御言葉に従がってこの世を歩みましょう。イエス様のように・・・。

★箴言 29:18 がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。(新改訳)
★箴言 29:18 がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。(新共同訳)
★箴言 29:18 預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。(口語訳)  

 
 






・・・・・(3)イエス様の聖所での姿・・・・

十字架上でのイエス様の、聖所の中での様子を見てみましょう。

イエス様は、両手を広げられ、右手に神の力である「聖霊」を、左手に「御言葉」を、そして真中の心に、肉を裂いて神の御心の成就を祈る「香壇」がありました。

★Ⅱコリント 6:7 真理のことば神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

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私たちが、イエス様のように、心を一粒の麦として死なせるのであれは、私たちは真の弟子に相応しく、真の祭司に相応しく、イエス様の身丈に毎日近付いてゆきます。

そして、私たちの肉が死ぬのであれば、心の中のイエス様が両手を広げ、この地に於いて、敵の要塞をも破る働きを直接して下さいます。

★Ⅱコリント10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

その時、聖霊による大きな神様の御業が行われ、通り良き管となった私たちは、ただただ神様に栄光を帰す僕となります。

★ヨハネ 14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。 

私たちがイエス様の身丈に日々成長しなければならない理由は、イエス様の身丈のバランスを自分のものとしていただくためです。

イエス様は、バランスの取れた完全な姿です。なぜならは、イエス様は、全ての面《愛・義・聖・恵・真・謙遜・富・従順・柔和・平安・寛容・従順・誠実・忍耐・自制・・・・)で完全であられるからです。

私たち一人ひとりには、キリストの体の一部分の使命を担当します。しかし、そのどの部分を任されたとしても、私たち自身がイエス様の身丈のバランスを我がものとしている事が重要です。その為に、私たちは自分の肉の心を十字架に付けて死なせ、イエス様ご自身が我が内で生きていただく必要があるのです。

★ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちは、ヨハネ17章の「大祭司の祈り」のように、先ず自分自身が殉教の心を持った祭司となり、二番目にクリスチャンの心が聖められる事を、最後にキリストの身丈に至った私たちが多くの魂の刈取りをするに至りますようにと、互いに祈り合いましょう。

私たちがサタンの支配するこの世にいる限り、100%の完全はあり得ません。サタンは必死で私たちに戦いを挑んでいます。一時も油断は出来ない環境に居ます。

★黙示録目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない

この世での安全や祝福は、イエス様の完全を第一に求めて生きる時に、それらに添えて与えられます。





 ★花のライン17休憩
2013年1月23日(金)に続きます。「垂幕」についてです。



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天国への地図(5)香壇⑤「イエス様の香壇での祈り」



初めて「心のチャペル」をお読みになる方の為に
最初(2013年1月)からのメッセージのダイジェストを、まとめています。
現在、シリーズⅠ「生ける宮」のダイジェスト
シリーズⅡ「キリストの岩」コチラコチラが完成しています。a_new6.gif







 1★十字架のライン
 


ライン15
香壇のまとめ「イエス様の香壇での祈り」 
0110の1



本日は、イエス様の香壇である「ゲッセマネの園」での祈り
特に十字架前夜の祈りを通して
私たちが、祭司として到達すべき姿を見て行きたいと思います。

神様は、天地創造の五日目で、空と水の生き物に対して繁栄を命じて、
幕屋五番目の器具「香壇」で仕える私たち祭司にの捧げる祈りが
聞かれるように、あらかじめ繁栄を準備をして下さいました。

1108の1

★創世記1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。
生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」


神様は創造主であられるのに、本当に謙遜なお方であり、
私たち弱く罪深く小さな人間の祈りと共に、
この地の歴史を造り上げてゆこうとされておられます。

神様の夢は、「祭司の王国」であったのです。

★出エジプト 19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るなら、
あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。
全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」







・・・・・(1)私たちにある祭司の位・・・・

十字架以後の私たち信仰者は、ルターの言う通り、万人が祭司の資格を持っています。

★1ペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

イエス様は、天の父があまりにも人間を愛すので、罪と汚れに満ちた人間を父の子・父の民とする為に、残酷な十字架の血により人間の罪と汚れを贖いました。神は祭司の王国を望んでおられたので、神の民を得るためのとりなしの祈りをする「祭司」をも、十字架で生み出しました。

★黙示録 5:9 「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 ★御子のヴィジョン

ここにはっきりと、多くの民と、少数の祭司(王)がいます。神の王国は、神の民とそれを治める王がおり、王と祭司はセットになっていますので、この地に於いて祭司として生きた信仰者が、来るべき王国に於いて王となって、王の王であるイエス様と民を治めると考えられます。

私たち信仰者の全ては、「王である祭司」として召されているのですが、全ての信仰者が現在、祭司ではありません。私たちは、日々祈っています。特に困った時には熱心に祈ります。神様が祈りに答えてくださると約束しておられるからです。

★マルコ 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

今お正月で多くの日本人は神社に初詣に行きます。クリスマスをイエス様の存在なく多くの日本人が楽しむように、必ずしも宗教心からではなく、イベントのようになっている面もありますが。真の神を知らない彼らが祈る祈りは、「家内安全、健康、商売繁盛、合格祈願・・・」などのこの世での幸福です。

しかし、真の神を知るクリスチャンが、これらと少しも変わらない祈りだけを毎日祈って一生を終えてしまうのならば、祭司であるとは言えません。これら、偶像礼拝の民が願っている事は、神の国と神の義を求めるのなら、添えて与えられるものです。

★マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(6:31何を食べるか、何を飲むか、何を着るか)はすべて与えられます。<

もちろん人間は弱い者ですから、衣食住のため、健康のため、経済のために熱心に祈り求めて生活する事は、謙遜で尊い生き方です。

しかし私;福田の場合、自分の心をよく見ると、自分と自分の家庭、自分の教会や団体など自分の周りだけの祈りが極めて切実であるのに対し、天の父の御心の成就を祈り求める事は、言葉だけの物になってしまっているように感じます。

大祭司であるイエス様は、私たちに「祭司」として神様の御心(神様の御国の御計画の実現)を、心の底から切に祈って欲しいと願っておられます。






・・・・・(2)祈りが答えられる聖い祭司となる・・・・

私たちが祭司となる為には、私たちが生ける宮として完成する事が重要です。私たちが自分を生ける宮として完成させる(ガラテヤ2:20)のなら、心の礼拝堂(聖所)で、自分自身がその自分生ける宮の祭司として、心の奥底(霊)の所で神の御座に座っておられる神様に向い、祈りの香を立ち上げる事ができるからです。

★出エジプト 25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む

イエス様こそが、私たちの間に、そして私たち自身の生ける宮の真中(霊)に住むために、クリスマスの夜に地に降りてくて下さいました。

★ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

★ヨハネ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

しかし、私たちはイエス様を救い主として信じて神様の民、神様の子とされても、毎日の歩みの中に罪や汚れがないわけではありません。

イエス様の十字架で、罪や汚れが赦された身分となっても、日々の罪や汚れの思いや行動が全ての人にあります。罪赦された者として永遠の命を頂天国の住民になったのですが・・・。

体は救われて死んだら栄化されて霊の体となり、霊の所には神が聖霊として宿って下さっているのですが、心(魂)だけはまだキリストの身丈にまで成長しておらず、一生をかけた日々の聖化が必要です。その聖化されていない心から出た汚れた行動も、救われている信仰者にも充分にあり得ます。

★ローマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

★詩篇★詩篇14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。

しかし、祭司として生きるのならば、旧約の大祭司のように動物の血によって一年に一度だけではなく・・・、

イエス様の十字架の血潮によって、365日、24時間開かれている垂幕を通り、いつでも神の御座の御前(至聖所)でとりなしの祈りを捧げるチャンスがあります。

その時には、旧約の大祭司が祭壇でとったいけにえの血を携帯し、十字架を象徴する贖罪が終わったその直後でさえも、世の砂の上を歩いて付いた汚れを水盤の水で聖めたように・・・、

新約の祭司私たちもまた、聖所・至聖所に入る前段階として、常に十字架の血を確認して感謝し、世の歩みの中で付いた汚れを水で聖くなる事が必須です。なぜなら、聖くなければ神に近付く事も、至聖所に入って、神を見る事もできないからです。

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★ヘブル 12:14 くなければ、だれも主を見ることができません。

★マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

聖くある事とは、もちろん体と心で罪を犯したり、汚れたりしない事ですが、クリスチャンとなって何年も聖い生活をめざしている方は、大きな心と体の罪を犯す事は少なく、日々の悔い改めの祈りで聖められています。

しかし、天の父は表面的な罪や汚れだけではなく、良い行動、神様に対する礼拝や奉仕をする際であっても、心の中にある動機も見ておられて、この世の常識ではよしとされる面についても、聖を全うして神に近付いてくる事を願っておられます。

信仰者が神のための奉仕、人への奉仕をしているその心の動機に、どこまでも自分への何かを忍ばせようとするのが、サタンの狙いです。サタンは神だけを見つめて満足していたアダムたちに「善悪を知る知識の木の実」を食べさせて、自分を見させ、他人と比べるようにさせました。

神と人への奉仕、神への礼拝の中に、他の信仰者と比べて自分に栄光があるのかないのかが気になる時、危険な状態です。人間は目に見える結果だけを重要視しますが、神はその動機に注目します。

★Ⅰサムエル16:7 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」

★ヘブル10:22 そ、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって真心から神に近づこう ではありませんか。








・・・・・(3)試練の中で神を見、祭司となったヨブ・・・・

ヨブは、神様が認める、当時の世界で一番素晴らしい信仰者でした。しかし、全財産と子供全員を一挙に取り去られると言う試練を体験しました。

それでも、神をのろわずにいたヨブを皮膚病が襲い、それだけでなく、全ての周りの人に軽蔑され、憎まれてしまう「四面楚歌」の「試練の荒野」に、一人きりで入りました。

★ヨブ 19:9 神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。・・・ 19:17 私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。19:18 小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。 19:19 私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。

そこで、神に会いたいと切に願い求めている時、旧約時代にも拘わらず、イエス様の存在を把握しました。もちろん、肉の目で見たのではなく、心の目で確信しました。

★ヨブ19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

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そして、とうとう神が嵐のなかから、ヨブに出会ってくださいました。
 
★ヨブ42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

神と出会い、ヨブが悔い改めた時、神様がヨブに祭司としての役目を与えます。

★ヨブ2:8 今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。」・・・42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた

神の国と神の義を真っ先に求めた時、ヨブは全てのこの世の祝福をそれまでの二倍も受けました。

★ヨブ42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

神様は、富も、健康も、家庭も、環境も、信仰も、礼拝も、良き行いも、人格も、全てが豊かに恵まれて優っていたヨブを、試練と訓練の荒野に呼び出して出会い、悔い改めに導いて魂を聖め、祈った祈りが聞かれる義なる祭司へと成長させました。

私たちも、何か一つでも試練と感じる時、荒野にいる事を自覚し、聖霊に御言葉を照らしていただいて深く悔い改めて聖い者とされ、神様と一対一で出会い、神様の夢である人々の救いのために、天の御座の前に届く、義人の祈りを捧げる真の祭司となりましょう。

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★ヤコブ 5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 

イエス様はいま、天の御座の神の右側で、大祭司としてとりなしの祈りを捧げておられます。ヨハネ17章には、十字架直前のイエス様が祈った「大祭司の祈り」が記されています。

以外は事に、イエス様の祈りの優先順序は・・・、
①ご自分の十字架の使命を果たした事によって、世の始まる前にあった栄光で神父子が輝くように
②弟子達を世から聖め分かってくださるように
③彼ら(弟子たち)のことばによって、神を信じる人々のために

十字架を全うして天におられる大祭司のイエス様はいま、二千年前に③で祈られた私たちもまた、イエス様の聖さの身丈に至って聖別されるを、未信徒の救いよりも優先して、父の御前に祈っておられるのではないでしょうか。

※私;福田は、一点の曇りもなかった世の始まる前の父子の栄光が、サタン(堕落天使)の出現とその影響を受けた人間の世に付く肉の思いによって陰りができ、イエス様が十字架で肉を裂かれてっ完全に肉体を死なせた事と、死の力に打ち勝った神が復活させたによりサタンに勝利し、世の始まる前の栄光が取り戻されたと言う事ではないかと考えています。

ですからこそ、神を信じた神の民がどれ程までに多数であったとしても、それだけでは充分ではなく、この世に付く肉の思い(プシュケー:魂の命)を殉教させて神の栄光を輝かせる本当に一握りの真の信仰者(レムナント;聖い祭司・十字架を負ってイエス様だけに従う真の弟子・しみもシワもない聖なる花嫁・・)の出現を、何にも先立って天の父子は待っておられるのではないでしょうか。特に再臨を迎えるいまの時に・・・

再臨の日、聖かったけれど信仰が幼くてサタンに騙されてこの地に降ろされたアダムたちと同じベビークリスチャンばかりが天国に戻って来ては、せっかく荒野に人間を降ろした神様の御計画が無になってしまいます。ですから、一人でも多く、真の信仰者として十字架に肉の思いを釘付けて死なせ、サタンに勝利する聖別された弟子の出現が急務です。

救われたベビー・クリスチャンは、永遠の中でイエス様の身丈に限りなく近付いて行く事になり、より多くの人々が救われる事が教会存在の第一義ですが、一人でも多くのイエス様に似た息子娘の誕生が父なる神様の大きな喜びで、その報いは永遠です。

★黙示録 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。


イエス様のように、この世の富・名誉・栄誉を振り捨てて、それらとは比べ物にならない天での栄光の中に入れていただく事を願い、真の祭司として生きましょう。








エンディング



イエス様は、ゲッセマネの園の香壇で、十字架に付けられる前夜、神の御前に跪(ひざまづ)き、切なる祈り捧げました。そのあまりの苦しに、力づけに御使いが来るほどでした。

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★ルカ2:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山(マルコ;ゲッセマネの園)に行かれ、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた

肉をまとっていたイエス様は、その引き裂かれる肉の痛み、全世界の罪を背負う苦しみ、アザゼルの山羊のように父なる神からも、弟子たちからも引き放される壮絶な孤独を忍耐しましたが・・・、

天の父の夢の実現を喜びとして、その結果に満足なさいました。

31一粒の麦キリスト

★イザヤ 53:10 彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

私たち人間には、イエス様のような想像すらできない十字架の苦しみを耐える事はできません。

しかし、私たちの肉の思い(世と世に付く思い・自分の栄光・世での栄光・自己実現欲・面子・・・・)を死なせて聖くされ、ヨブのように肉の思いの裂け目から、天の御座を見つめたいと思います。

御座の前に座り込み、自分の息子・娘の救いのためにだけ祈るのでなく、同じ熱心さで世界中の父なる神の息子・娘が救われるように、そして天の父が最も愛す長男・長女であるイスラエルの民の救いのために、とりなしの祈りを捧げる祭司となりましょう。



3ライン 









 ★花のライン17休憩
2013年1月17日(金)コチラに続きます。「聖所のまとめ」です。


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シリーズⅡ「キリストの岩」ダイジェスト


1★十字架のライン 
 

ライン15
シリーズⅡ「キリストの岩」 ダイジェスト



(1)「私たち生ける宮の霊の所の素材は?」
2013年2月15日(金)全文はコチラから

心の素材は「土」でした。では、霊の所の素材は何でしょうか?霊の所は、大いなる空間です。

人が土から造られた時、神様は鼻から神の輝く命である息を吹き入れ、人は生きるようになりました。知識の木の実を食べた時にその息は取り去られて、霊の所は再び神の霊がなくなり「空しく宇宙よりお広い空間」へと戻ってしまいました。

ソロモン王が神殿を建設した時に言ったように、どんな立派な建物を造っても、偉大な神は入りきれません。
★Ⅱ歴代6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

しかし、私たち人間の霊の所には、天も、天の天も入れる事のできない偉大な神が聖霊として住む事ができるのです。その霊の所は神が入って初めて満足できるので、人間は神以外のものがどれ程多くあっても空しいのです。世の栄華と贅沢を全て知り尽くしたソロモン王の晩年の言葉です。
★伝道12:8 空の空。伝道者は言う。すべては空
          
・・・・・・・・・・・・・・・ 

日本で生きる私たちは、いつ大地震が起こるのかと不安の中で生きていますが、私たちが永遠に住む神の都はの土台は、「永遠に変る事のない御言葉であり、そこに住む事を可能にして下さったイエス様の十字架の御業」です。

私たちの人間側の信仰の父「アブラハム」は、神さまの御声を聞き、御言葉に従っていましたが、神さまも、御座も見た事がないのに、この堅い土台に建つ天国の都を確信していました。

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル人への手紙11:8-10)

 堅き土台の都

私たちの信仰の父アブラハムは、神さまもその御座を見ずして、岩よりの堅い土台に建つ神の都を確信し、その信仰のゆえに、神さまに賞賛されました。

旧約聖書の時代の信仰者たちは、神の存在を岩と認識していましたが、特にダビデは、サウル王に命を狙われて荒野をにげまっわっている不安の日々を通る中で心の支えとなった来たので、「主は救いの岩」との確信を賛美しています。

 主は我が岩

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31) 

私たちが神を信じて救われた時に、私たちの心の奥底、空しく広大な霊の所に、天にる堅い岩(堅い基礎の上に建てられた都)が据えられたのです。
★ルカ「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

問題は、私たちが何処までそれを信じ、信頼できるかです。





(2)「愛の御座」
2013年2月22日(金)全文はコチラから


十字架で流された血と死を通して贖いの御業を完了して、天に上られたイエス様は、御座に着かれて、御父と共に賛美を受けます。

その時、数多くの立場と職名(神のひとり子・王・花婿・万軍の将・羊飼い・大祭司・預言者・癒し主・勝利の主・・・)のイエス様は、「小羊」としての十字架の贖いの御業に対して栄光と賛美とを受け、「贖いの小羊」として着座されておられます。

★小羊の御座s

★また私(使徒ヨハネ)は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)

天の御座の土台は、私たち人間を愛するあまり神様父子が忍耐して下さった十字架の御業です。愛が土台です。

※最後に、聖歌392番「神は一人子を」があります


 



(3)「義の御座」①「愛」と「義」の土台
2013年3月1日(金)全文は

本日から七回に分けて、御座の義の土台について考えて行きます

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私たちの霊の所には、岩のように揺るぐことのない堅固な御座があります。
それは天の父の、それぞれ相反する愛」と「義」とが、たった一人の御子イエス様の十字架によって完全に両立した故に築かれた「御座」です。

しかし、神さま父子の「愛」と「義」は、どちらが強かったのでしょうか?

神さま父子に人間を愛す「愛」があったからこそ「義」を満足させる為に「十字架」を選択しました。もし御父が御子だけを愛して、人間を愛して下さらなかったら、「義」の出番はなかったはずで、父子共にとっての壮絶な患難である「十字架」は、存在し得ませんでした。

しかし、そのままでは永遠に亡びるしかない人間を救う為に、「愛」と「義」の双方がかなうたった一つの方法「十字架」が決行されました。

御父が御子を愛し、御子が御父を愛し、そして聖なる父子が私たちを愛したので、御子がへりくだって地に降りて来られ、忍耐の上に忍耐を重ねて「義」を貫き、「愛」を全うして下さったのです。

  13★モリヤの山


前回2月22日(金)コチラのメッセージに少し戻りますが、天の父が罪ある人間を神の子・神の民とする為には、十字架しかありませんでした。

しかし、その使命を最も愛する一人息子に託すにあたり、理性的に納得してはいても、感情的には非常に辛かったのではないでしょうか。モリヤの山での礼拝は、完全に十字架を象徴しており、しかも、御子を象徴しているイサクではなく、御父を象徴しているアブラハムに完全にスポットライトが当っています。、
 
アブラハムだけでなく、愛する我が子の死に遭い、十字架の時の御父の壮絶な苦しみ悲しみを共有された信仰者も多くおられます。その悲しみの中で、天の父に心を馳せた兄弟が作詞作曲された「父の涙」をお聞きください。

『父の涙』 作詞・作曲 岩渕まこと兄弟
 






 







(4)「義の御座」②「その日の二種類の締め切り」
2013年3月5日(火)全文はコチラから

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イエス様は、クリスマスの夜、御父に遣わされて、ダビデの町エルサレムの近郊「ベツレヘム」でお生まれになりました。

一度目にこの地に無力な小さな赤ちゃんとなり、へりくだった「救い主」として「初臨(First Coming)」なさったイエス様は、裁き主として裁きの火と共に「再臨(Second Coming)」されます。

 ★初臨と再臨

初臨の時のイエス様は、「愛と義」の「愛」を前面に十字架の死にまで従順に従った柔和なお姿で現れましたが、再臨の時には「義」を前面に、厳格な裁き主として天空に現れます。

クリスマスには、ベツレヘムの郊外で羊飼いたちだけが天の軍勢を見ましたが、再臨の時には、全ての人間が見ます。
★黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

この日、憐れみの、救いの、恵みの幕が降ろされます。
★Ⅱコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

この日は。二種類の締め切りの日となります。

①イエス様を救い主として信じなかった人に対する「救いの締め切り日」

②信仰者が何処まで御言葉を重んじ、イエス様の聖さに至ったか、イエス様の愛で人々を愛したか・・・の「評価(報い)の締め切り日」の二種類です。

①偶像礼拝の人を含む未信徒にとっても、②私たちクリスチャンにとっても、主の大いなる恐るべき日までにすべき事は、日常の全ての場面で主だけを救い主としてその御名を呼び、その堅固な救いの岩だけに頼り続ける事です。

★ヨエル 2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。2:30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。2:32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる
 










 (5)「義の御座」③「教会」の二段階の「裁き」
2013年3月8日(金)全文は コチラコチラから 

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クリスチャンは、イエス様を救い主として信じて救われ、永遠の命をいただいて天国の住民となったので、死んだら裁きの火を通らないと思っておられる方が多いと思います。しかし、聖書ははっきりと言います。

★ヘブル9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・

イエス様の再臨の時、信仰者には自分の信仰生涯に於いて、イエス様の贖いの土台の上に何を建てたかが裁かれます。

★(Ⅰコリント3:9-15) 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。


 土台の上に

 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(Ⅰコリント3:9-15)

行動を積み重ねる信仰者の心の動機が聖いものであって、豊かに報いを得られる為に、イエス様の枝に繋がっていて、先ず天からの水によって心の中に実を結んでいる事が重要です。

 御霊の実 ぶどうの枝

心の中に御霊の実を結ぶと、その心の実と、その実から出た行いが、最後の裁きの火で焼かれないからです。

最後の時に焼き残るものが何もなくて、裸同然、身ひとつで天国に入る事がないように、イエス様は私たちが生きている間に、心と言動の中の天から来ないものが先に焼かれてしまう事を願っておられます。

★ルカ12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

これから、イエス様の再臨に向けて、信仰者はひとりひとりが、モーセのように整えられて、私たちの周りの人々をこの世から出エジプトさせて、永遠のカナンの地「天の御国」に連れ上る使命があります。 

私たちの信仰の父のアブラハムも、モリヤの山での使命を果たすに当り、長い期間、その心と言動を試練の火によって聖められました。

神様の御言葉を細部まで守らなかった時、地獄の暗闇の中に置かれ、大きな罰を与えられました。

アブラハムへの不従順アブラハムへの罰

★日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(創世記15:12)

私たちも、生きてこの地にいる間こそ、どこまでも自分中心である肉の思いを日々火によって焼き尽くされ、天からの水を世に流す管となれるように聖霊に取り扱いを受けます。私たちは日々、生ける神の宮として完成を目指して生きているべきです。

★Ⅰコリント3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 

 

 



(6)「義の御座」④「ソロモンの神殿の土台岩」
2013年3月12日(火)全文はコチラから 


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なぜなら、私たち個人の「生ける教会(神殿・宮)」も、集合体の「地域の教会」も、古今・未来・東西南北の信仰者からなる「キリストの身体なる教会」も、完全で不動の「義の岩盤」の土台の上に建っているからです。

 ★ソロモンの神殿

現在、このソロモンの神殿(第二神殿)の跡地と把握されている所は神殿の丘と呼ばれ、イスラム教のドーム(金色)が大きな岩を覆うように建てられています。

私たちの信仰人生の土台も、砂の上にではなく、岩の上に建てるようにとイエス様は語っています。

私たちの心(魂)は土でできており、表面の感情の砂は絶えず環境によって揺れ動き、踏み固めて強固と思われう意志でも知識や知恵や経験ももろく、土台とはなり得ません。

★ルカ6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

 岩の上に教会を建てる2

どんなに賢く、どんなに強く、どんなに美しく、どんなに善に満ち、どんなに不滅のように見えても、神の御言葉よりも確かな土台はありません。

御言葉の本体であられるイエス様が愛と義を貫いて下さった十字架の堅き御座が、私たちの土台岩で、その他の被造物は何も土台とはなり得ません。

その、天の堅き岩なる御座が、私たちの心の奥底「霊の所」にあるのです。

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31)

最後に聖歌 450番 「何ゆえみ神は」の賛美があります
会衆が楽しそうに手拍子をしながら賛美しています


 


 

 

 




(7)「義の御座」⑤「麦の打ち(脱穀)場である岩」
2013年3月15日(金) 

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ソロモンの神殿は、大きく平らな岩盤の上に建てられましたが、そこはかつて、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山でした。

 モリヤの岩山2 神殿の基となった岩


その後、この岩のダビデの前の所有者で、エルサレムの先住民であるエプス人の「オルナン」は、この岩を麦の脱穀場として使用していました。その様子は、イエス様が話された最後の収穫の時の裁き、そのものです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(マタイによる福音書13:37-43) そして、麦と毒麦と分けた後、麦の穂を日に干して乾燥させてから脱穀をしますが、実の入っていない穂は、風に飛ばされてしまいます。

ですから私たちは、ぶどうの木であるイエス様に繋がり続け、天からの命の川を飲み続けましょう。

もみがら
 
ダビデがオルナンから打ち場を買い、ソロモンが神殿を建てました。

 2オルナンの打ち場

神殿の丘の中心的存在は、黄金のドームの真下にある「聖岩(アッサフラ)」です。それは長さ17・4m、幅15・3m、高さ2mほどの石灰岩です。この岩は元来「エブス人アラウナ(オルナン)の麦打ち場」(サムエル記下24・18)でした。広々とした風通しのよい台地に大きな岩があると、そこは農夫にとって最適の脱穀場になります。刈り入れた麦の穂をその上に敷き並べ、太陽の熱で乾燥させてからその穂を打つと、実と殻が分離します。そして箕を使って、実と殻を吹き分けます。(聖地旅行記・高橋秀良牧師説教集より)そこを買い取ったのがダビデでした。

私たち信仰者は最後の日、この打ち場で裁かれます。

一粒でも多く、私たちの人生に実が残って天の父に「良くやた私の僕!」と喜んでいただけるように、イエス様に繋がり続けましょう。

ダビデ王は、神様が祝福して与えられた民を自分の栄光として、この打ち場に立って民を裁いている「抜き身の剣を持った天使」を見ました。

これから魂の大収穫を見た時、私たちが自分の栄光とする大罪から守られる為、イエス様の謙遜の身丈に至りましょう。

全文はコチラから 

 

 

 



(8)「義の御座」⑥二人の方の「一粒の麦の死」
2013年3月19日(火)全文はコチラ

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イエス様は、私たちが豊かに実を結ぶ為に、一粒の麦として自分の肉である魂の主張を退けるようにと仰いました。

日本語では「命」の言葉が一つしかないので、ギリシャ語に忠実に訳された「回復訳」を読んでみましょう。

★回復訳ヨハネによる福音書12:24「一粒の麦が1地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。 12:25 自分の魂の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の1魂の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」

 生ける宮の三つのいのち
ギリシャ語の聖書では、人には三つの部分の命が区別されているそうです。


体の麦の殉教は尊く、一生に一度訪れるチャンスがありますが、心(魂)の麦の殉教は毎日できて、この地に豊かな収穫を見る事ができます。

 再臨前の大収穫

イエス様こそが、一粒の麦として全てを裂いてくださいました。

アブラハムも、自分自身が殉教死するより辛い息子に本気で剣を振り下ろし、私たちに大きな祝福の約束を御父からいただきました。

★ローマ4:23 「彼(アブラハム)のとみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰をとみなされるのです。 4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 この二人の方の「一粒の麦の死」の全文はコチラ


最後に十字架の御業に対する神様への感謝の賛美があります
聖歌711番「ほむべきかな」


 

 

 



 (9)「義の御座」⑦私たちの「一粒の麦の死」」
2013年3月22日(金)


本日は、自分の肉の主張である「魂(プシュケー)の命を、自ら殉教死させたのではなく、ヨブのように突然の相次ぐ災難により、一粒の麦である心(魂)が裂けてしまった信仰者の体験です。

一時に、幼い四人の娘を客船の沈没で失ってしまって心に、天から来る「人知では到底知る事のないあってきな平安」が押し寄せて来ました。その様子を詩にしたものが、賛美歌となりました。

329すげて安し

この、古くから世界中で愛唱されている賛美「安けさは川のごとく」の背景を知って、「真のキリストの弟子」の姿を見てゆきたいと思います。下は日本語の歌詞と賛美です。 

聖歌476番「安けさは川のごとく」
 
この賛美の作詞者であるスパフォード(1828-1888)は、シカゴで有能な弁護士として、裕福平穏であり幸せな日々を送っていました。

彼はたった一人の男の子を病気で天国に送っていましたが、四人の娘の父親であり、長老教会の熱心なクリスチャンでした。その富を持って当時のリバイバリストを支援していました。しかし、ヨブのように資産を大火で失い、四人の娘も同時に失ったスパフォード師の心は、天の御国(至聖所)から来る、悲しみを圧倒する大きな慰めを味わいました。

人間の幸せの基準を遥かに超越する、天地創造の七日目の御国の平安・安息を味わう事は、天地が創造された大きな目的です。信仰者の多額の献金や、奉仕や、病気などが癒された証も素晴らしいのですが、それらに優る体験が信仰の世界に存在します。

世の人、信仰者が聞くべき証の最たるものは、霊の所から心に湧き上がって来る、天からの生ける水の体験ではないでしょうか。

 全文はコチラから 







(10)「キリストの岩の裂け目」」
2013年3月29日(金)

私たちがこの世にあって、絶望の中でも、患難の中も、逆境の中であっても、天の御国の安息・平安を得るには、どのようにしたらよいのでしょうか?そして、天の御国は何処から流れて来るのでしょうか?

イエス様が十字架上でご自分の全てを捧げて下さって私たちに与えられた「神の命(ゾーエー)」を「神の安息」と捉えて、見てゆきたいと思います。

天地創造の七日目に、御父が入られたのは単なる休憩ではなく、「御国の全き安息」です。

★そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。・・・こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記1章2章より

★ヘブル4:3-4 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっている のです。 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

正しく前回の賛美「安けさは川のごとく」の「全て良し」であり、「全て安し」です。
そして、天地創造の時、既に全て御業は完成していました。それを、私たちが日々の歩みの中でどう「御国の全き安息」を実感するかだけの問題です。

スパフォード兄弟の心が裂けた時に味わった「御国からの安息」は、地上にあってどのようにして体験できるのでしょうか?本日は、旧約聖書の神の僕たちが心を裂いた時を調べつつ、その天からの水が何時、何処で、誰が流れるようにして下さったのかを、御言葉により検証して行きたいと思います。

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329主題

ウオッチマン・ニーは、神のいのちの霊(ゾーエー)を包んでいる自我の硬い魂(プシュケ)を、石膏の壷のごとくに砕けば、心の奥底の霊の所から、神のいのちが香油のごとくかぐわしく出現する事を、マリヤの行為を通して説明しています。

★イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ14:3)

石膏の壷
1杯
詩篇23篇「私の杯(霊)は溢れます」

もし、私たちが魂の主張を裂いて死なせるのならば、私たちの心の奥底に閉じ込められていたキリストの香りが、自分の心や体を満たすだけでなく、この世に流れ出して行く人となれるのです。そしてそれは、天の父の御前にも、父を喜ばせるかぐわしい香りとなります。

★Ⅱコリント 2:14-15 神は・・・至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放って くださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

神の僕モーセは荒野で乾いた時、岩の裂け目から水が湧き出てくる体験をしました。神の杖で岩を打ったら、岩の裂け目から水がほとばしり出て、人々を潤しました。その岩はキリストであると、聖書ははっきりと語っています。

★1コリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

そしてキリストの岩が裂けたのは、イエス様が十字架上で息を引き取られた時です。

 329キリストの岩

聖書の人物も、今を生きる信仰者も、心を裂く場面はそれぞれです。しかし、私たちのお腹の底からわきあがって来る命の水は、イエス様の岩が裂かれた裂け目からです。

その裂け目の入ったキリストの岩が、私たちの心の奥底、霊の所にあります。至聖所の契約の箱は、天の堅い御座を表しています。

※契約の箱の贖いの蓋の上には、ケルビムが二体あって、その隙間から天からの栄光が入ってきます。アダムたちが罪を犯してエデンの園を追い出された時に、戻れないように門が閉鎖され、ケルビムが万人として見張っていました。しかし、十字架の血を確認すると、ケルビムは天からの栄光を、慰めを、生ける命の水を流す事を許可するのです。

また逆方向に、私たちの肉体が死んだ時、又は再臨の時、十字架の血によって罪赦された者に、ケルビムは天国の門を通る事を許可するのです。

 ★円形の栄光

十字架の御業に感謝して、最後に聖歌「十字架のかげに泉わきて」の賛美があります。

全文はコチラから







    
(11)「キリストの岩の裂け目に隠れる」
    2013年3月29日(金)

二人の、キリストの岩の裂け目に隠れた神様の僕がいました。



モーセの場合

モーセは、出エジプトして一年目に、シナイ山で十戒の石をいただいて民の待つ麓に下りた時、彼らは子牛の偶像を作り、祭りをしていました。

45黄金の牛

モーセは、民の頑固は性格と、兄のアロンでさえ加わっていた事に怒り、自分の能力の限界を自覚し、完全に自分の肉の力に絶望して、究極の祈りをします。

★33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

神様はモーセに神の栄光を見る事ができない事を伝えました。宇宙に太陽系がどれ程に数多く存在するかわかりませんが、たかが被造物のひとつに過ぎない太陽の側にすら人間は近付く事はできません。ましてや神の栄光を見たら、死ぬどころか、溶けてしまうでしょう。

★33:19 主は仰せられた。・・・「あなたはわたしのを見ることはできない。はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

そこで、神様の提案があり、モーセは岩の裂け目に入って、なおかつ神の御手に守られて、神の後姿を見ました。

★33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

45モーセ岩の裂け目

このようにしてモーセは、もう一度シナイ山の頂に石版二枚を携えて上り、岩の裂け目に隠れ、神の御手で守られて神の臨在(栄光)を体験しました。


エリヤの場合

偉大な預言者エリヤは、飢饉の中で鳥や未亡人に奇跡的に養われ、アハブ王が率いる偶像バアルの450人の預言者とカルメル山で戦って大勝利を収めました。しかし、その勝利の後、アハブ王の王妃イゼベルに命を狙われた時、非常に恐れて荒野へと逃げ、荒野の中で死を願うほどに落ち込みました。

★Ⅰ列王 19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
エリヤは、荒野の中で御使いによって養われ・・・、

★19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 

 45エリヤの荒野

★19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 

・・・元気を回復して、かつてモーセが神と出合ったホレブ山を目指して旅立ちました。

★ 19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえて・・・

 45エリヤの山頂

シナイ山、ホレブの山は岩山です。エリヤもまた自分に絶望し、主の山の頂のほら穴の入口「キリストの岩の裂け目」で、神の臨在を体験しました。







私たちの場合

私たちは、自分の能力に完全に絶望し、イエス様が十字架で裂いて下さった岩の陰に、モーセのように、エリヤのように隠れ、神様の栄光を見せていただきましょう。

絶対に、一人で外に出て行かないようにしましょう。私たちはイエス様の十字架の御許にいる時だけが安全で、豊かな実を結ぶ事ができます。一人で、自分の力で神様の働きをしようとすると、サタンの標的にされて敗北してしまいます。
岩で囲まれた洞窟の内側、キリストの岩の裂け目に留まっていましょう。

 45岩の裂け目

最後に、聖歌248番「隠せや我を 永久(とこしえ)の岩」の
微笑ましい英語の賛美と、日本語の歌詞があります。

全文はコチラから






 ★花のライン17休憩

ダイジェストのシリーズは、まとまりしだい随時、
2014年の元旦からの日付で公開して行きます。
シリーズⅢ「キリストの岩 」のダイジェストは
2013年1月3日(金)掲載します。



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≫ EDIT

シリーズⅠ「生ける宮」ダイジェスト


1★十字架のライン
 

ライン15
シリーズⅠ「生ける宮」 ダイジェスト




(1)「心のチャペルとは」
2013年1月4日(金)全文はコチラから

生きている教会

★あなたがたは神の神殿(教会・宮)であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(コリント人への第一の手紙3:16)

パウロはまた、この「霊・魂・体」の全てが健康でいる事が私たち人間の誰もにとって基本的な願いですが、聖書ではこの三箇所のうち、意外な事に、「霊」の状況が最も重要だと言っています。
★テサロニケ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。






(2)「あなたの心にクリスマス」
2013年1月11日(金)全文はコチラから

心のクリスマス

昔の聖書では「腹の底」と言いましたが、現在では「心の奥底」が「霊」の所で、ここに私たちがイエス様をただ一人の救い主として信じると告白した時に、イエス様の霊「聖霊」が宿り、私たちは「生ける宮」となります。
★ローマ 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

そして、乙女マリヤが聖霊によってお腹にイエス様が宿った時に聖霊に満たされて賛美をしたように、私たちもまた、心の奥底から聖霊によって賛美を捧げる麗しいクリスチャンとなるのです。
マリヤの賛歌






(3)「心の奥底から湧き上がる泉」
2013年1月18日(金)全文はコチラから

イエス様からのプレゼント

私たちの心の奥底にある「霊の所」に聖霊様が住むと、そこは、私たちを生かす「水」が噴水のように湧き上がって来る「心の泉」、「心の井戸」となります。イエス様は、この「生ける水」を私たちに飲ませて「歓喜に輝く永遠の命」を与える為に、クリスマスの夜、地上に降りて来ました。
★ヨハネ7:37 イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

命の水の川9

この命の水は、天国の中央に流れている「命の水の川」が、私たちの霊の所に流れて来るのです。そして、私たちがイエス様を深く思い巡らす時、荒野のように荒れ果てていた私たちの心の真ん中に川が流れ、両岸に命の木が生え、花が裂き、実が豊かに稔るのです。
★黙示録 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
★イザヤ35:1-2 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのようにを咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う

最後に「鹿のように/As the Deer 」の賛美があります








(4)エデンの東①「私たちの心が荒野である理由」
2013年1月25日(金)全文はコチラから

 アダム誕生

天地創造の六日目に、神さまが人を造った時、土から体を造りました。
ですから人間は、死ぬと空しく土に還るのです。
★その後、神である主は、土地のちりで人を形造り(創世記2:7)

最初、神様が鼻から神様の輝く命の息を吹き込まれた時、土でできている人は生きるものとなりました。
★その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)

しかし、「善悪を知る知識の木から実を食べてはいけない」と言う神様の唯一の命令を破り、霊の中のその輝くいの命が死に、心は荒野のように潤いをなくしました。

心の荒地

しかし、私たちの心の荒野に、天国への道が開け、天からの命の水が流される日が来ようとしていました。
★見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ 43:19)







(4)エデンの東②「園の中央から流れる川」
2013年1月26日(土)全文はコチラから

 エデンの東1

神様は、ご自分のおられる天の御座から東の方角にエデンの園を設けて、そこに多くの美味しい実のなる木を生えさせ、最初の人アダムを創造して園に置いて地を耕させ、園を管理させました。

エデンの東2

エデンを潤すために神さまが流した川は、四つの水源となって外にまで豊かに流れてゆきました。

★神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。(創世記2:9-10)








(4)エデンの東③「いのちの木と善悪を知る木」
2013年1月27日(日)コチラ

このエデンの園の中央には、黙示録22章の天国の水晶のように光る命の水の川の両岸にあった「いのちの木」が一本あって、その横には「善悪を知る知識の木」が生えていました。

他にも園には多くの美味しい実のなる木があったのですが、この「善悪を知る知識の木」の木の実だけは、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)と、神様は命じました。

しかし、知識の木の実を食べてしまったアダムとエバに、神様はいくつかの罰を宣告した上で、二人を天国を象徴するエデンの園から、この地上に追い出しました。いのちの木の実を食べさせない為です。

 エデンの東4

罪を犯したままで、いのちの木の実を食べて永遠に生きる霊の体になると、サタンのように永遠に厳しい裁きを受ける結果となるので、神さまは、アダムたちを愛するが故に追放しました。そして、エデンの園の出口である東の門には、ケルビム(非常に位の高い天使)を配して絶対に戻れないようにしました。

エデンの東6





(4)エデンの東④「荒野で学ぶ」
2013年1月28日(月)コチラから

アダムとエバは、肉体は死ななかったものの、霊の所にあった神の命はなくなる神様からの罰を受け、エデンの園から追放されてこいばらとあざみの生える荒地に下され、非常に厳しい生活を始めました。エバは出産の苦しみを味わい、アダムは労働の苦しみを味わう事となりました。

この地に下されたアダムとエバは、その苦しみの中で何を学んだのでしょうか?

エバは激しい痛みの中で息子を出産し、アダムは懸命に土を耕して彼らを育てましたが、長男カインは、次男アベルを妬みのあまり殺してしまいました。

カインは、その直前に「罪(妬み)を治めなさい。」と語られた神の言葉を無視したのです。かつてエデンの園で「一戒」を守れなかったアダムとエバは、神さまの御言葉に従う事の重要さを、心が引き裂かれる悲しみの中で学びました。

そして何よりも、アベルを失った事で、天の父が自分たちをどれ程までに深く愛しておられるかと言う「御父の愛」を知り、自分たちを罪の結果に失った時の「御父の悲しみ」を知りました。

父の心

そして、愛である神様が、良い者にも悪い者にもこの地に豊かに川を流してくださいますから、アダムを初めとする私たち信仰者は、日々謙遜に祈りつつ、荒野で生きる事を学ぶのです。

謙遜な祈り






(4)エデンの東⑤「私たちを追いかけてくる天からの川」
21013年1月29日(火)コチラ

天の父は、エデンの園にあった豊かな川をこの地に流して下さっているだけでなく、私たちの荒地のように空しい心の中にも、私たちを追って東側から流して下さっているのです。

 エデンの東5

ダビデ王は、私たちの心の流す天からの命の水と、御言葉の美味しい草に導いて下さり、必ずや天の父の家まで導いて下さるその様子を、「主は私の羊飼い」として詩篇23編を書きました。

 中羊飼いイエス様

※最後に「インマヌエル」の賛美があります






(4)エデンの東⑥「原罪とは?」
2013年1月30日(水)コチラから

原罪とは、アダムたちが「善悪を知る知識の木の実」を食べた事により、全人類が天の父である神の御言葉よりも、自分たちの考えを正しいものとして、それぞれ自分の道を歩む事です。

エデンの東7

しかし、イエス様がその罪を十字架の血と死により贖って下さり、イエス様を救い主と信じて告白する人間は、イエス様の後ろに従がって、天の御国に帰る道ができました。天国の門を守っているケルビムは、イエス様の十字架の血の付いた信仰者を確認し、閉じられていた天の門を通します。

アダムに付いて全ての人間は地に降ろされましたが、イエス様の後に従がって帰る事ができるので、イエス様は「第二のアダム」と呼ばれるのです。

 412の21台にのアダム






(4)エデンの東⑦「パラドックス・パラダイム」
2013年1月31日(木)コチラから

しかしなぜ、一見良く見える「善悪を知る知識」とは、特に「悪」ならまだしも、なぜ「善を知る知識」を食べる事が神様にとっては大罪で、人類にとって最悪の結果をもたらす事になったのでしょうか。それを本日は「パラドックス」と「パラダイム」と言う言葉で説明したいと思います。

キリスト教世界では神様の絶対的理論と、人間の揺れ動く理論の相違を、いつの日からか「パラドックス」と「パラダイム」と言う数学用語を使って理解するようになりました。

神の言葉(認識)である「パラドックス」は、人の「パラダイム」とは大きく違う事を言っている御言葉の最たる箇所は、下記のイザヤのとりついだ神様からの預言です。

★「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9

 パラドックス

上の絵は、イザヤ書六章をテーマに描いたものです。私たちの周りを見渡すと、とても「聖とは見えない(パラダイム)」のに、天使(セラフィム)には「神の栄光が全地に満ちている(パラドックス)」様子が見えていました。

神さまの計画の川は、永遠から永遠まで天の川のように大きく高き所を流れており、私たちの思弁の川は、低く、ほそく、何十年間かの限りある存在だと言う意味です。聖書の真理は、パラドックス(逆説)に満ちています。







(5)「ウオッチマン・ニーの見解」
2013年2月1日(金)コチラ

この真理を、ウオッチマン・ニーが、二つのカウンセリングの実際を通して、わかりやすく説明していますので、その内の一つ「段々畑のクリスチャン」のお話をまとめす。
 
中国の段々畑を所有しているクリスチャンの農夫が
干ばつになった時に出会った問題です。


 段々畑

干ばつの時に、その兄弟が水車で水を
小川から苦労してくみ上げて田に引き入れたが、
その下の田の持ち主が夜に土手を壊して
自分の田に入れてしまう。

土手を直して新たに水を入れるがまた、
水を取られてしまう。それが3、4回続いた。

「私は忍耐強くあろうと努力し、
仕返しをしないように努めているが、
私の態度は正しいでしょうか」と、相談を受けたので、

あるクリスチャンは祈った後にこう答えた。
「もし正しい事をしようとして努めているだけであったら、
私たちは非常に哀れなクリスチャンである。
私たちは正しい事以上の何かをしなければならない。」

・・・それを聞いた農夫は感銘を受け、
翌朝、彼は低い所にある隣人の二つの田に先に水をいれ、
午後に自分の田に水を入れた。

 段々畑の農夫

すると自分の田の水はそのまま残った。

・・・この行動を見た隣人がその理由を聞いた時、彼はクリスチャンになった。



☆だから主にある兄弟たちよ。あなた自身の正義(善の実の結果)の上に立たないで下さい。あなたが1マイル行き、もう1マイル行ったからと言って、何か正しい事でもしたかのように思わないで下さい。原則は私たちがキリストにならうと言う事である。

☆私たちは、守るものも要求するものも持ってはいない。ただ与えるべきものを持っているだけ

☆主イエスが十字架上で死なれたのは、私たちのいわゆる「正義」を擁護するためではなかった。主イエスが十字架で死なれたのは、恵みであった。だから私たちは彼の子として、常に他の人々に、彼らが当然受くべき以上のものを与えようとしている。


・・・ですから、私たちが普通に善と思って疑いもしないものの中にも、神の圧倒的な愛に満ちたお考え「パラドックス」とは違う、善悪の知識の実から来た人間レベルで判断をした低き善「パラダイム」があります。

私たち信仰者は常に聖霊に御言葉を照らしていただいて、悔い改めて悪の実だけでなくこの善の実をも吐き出し、キリストの裂かれた肉である「命の木の実」を食べると言う、真の聖餐式を日々受け続けなければなりません。








(6)「心は土」
」2013年2月8日(金)全文はコチラから

私たち生ける宮(体;建物、心;聖所、霊;至聖所」の素材は何でしょうか?

体の素材はは間違いなく、土です。
★創世記 2:7 神である主は、土地のちり で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

しかし、イエス様はそのメッセージの中で象徴的に、私たち人間の心(魂)を土として、また畑としてたとえて、天の父は農夫だと教えています。、

 四つの地に落ちた種

イエス様を救い主として信じ、告白して救われたのは、体と霊でした。体は死後または再臨の時に霊の体に変えられて永遠に生きる事が保証され、空しい霊の所には、神の輝ける命が宿りました。

まだ救いを全う(完成)していないのは、心(魂)だけです。問題児は心(魂)です。

私たちの心の畑は、農夫である天の父に鍬や鍬で耕されて不純物を取り除かれ、一生の時間をかけて、神の御手で尊い事に使われるに相応しい器へと、強く練り清め、厳しく育てられて行くのです。

 j心の畑の開墾

※最後に聖歌295番「成したまえなが旨」があります。










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これから随時、シリーズごとのダイジェストをまとめて行きます。
シリーズⅡ「キリストの岩 」のダイジェストは1月2日付けです。


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