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(6)「心は土」

今日は、私たち生ける教会のそれぞれの部分が何で出来ているのか?
その素材について、考えて行きたいと思います。

体は、神さまが天地創造の六日目に「土地のちり」を原料として造りました。
ですから、体の素材は土と言うことで明白です。
では、心(魂)と、霊の素材は何でしょうか?

生きている教会

先ず今日は、心の素材を見て行きたいと思います。




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「御言葉の種が蒔かれる畑」

私たちの心は、御言葉の種が蒔かれる畑です。
御言葉の種


イエス様は大勢の群集に向かい、「たとえ話」をされました。

★イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばた に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13:3-9)


 四つの地に落ちた種




このたとえ話の意味を、イエス様ご自身が解説しています。

★「御国のことばを聞いても悟らないと
悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。
chapter4★
道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。


また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
岩地に落ちた2種
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、
みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。


また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、
茨で覆われる
この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、
実を結ばない人のことです。


ところが、良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いてそれを悟る人のことで、
良い畑
その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
(マタイによる福音書13:19-23)





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「父は私たちの心の畑を耕す農夫です」
 

天の父は、私たちの心の畑にイエス様の種である、御言葉の種を蒔きます。しかし、私たちの畑は柔らかく耕されておらず、地表と地中に岩のように頑固で大きい石が点々とあるし、様々な思い煩いや、世の楽しみ、めとったり嫁いたりに夢中になるなど、世に付く思いが心の表面を覆っていて天からの光を遮(さえぎ)っており、心に豊かな実を結ぶ事ができていません。

ですから、農夫である天の父は、環境を変えたり、周囲の人を使って、私たちの心の土を耕します。それが試練と言うもので、心や、体や、自分を取り巻く環境に痛いのですが、仕方がありません。

 j心の畑の開墾

なぜならば、天地万物を創造され、その御力をもって全てを維持しておられる神さまにとって、絶対に勝てないものが、ひとつだけがあるからです。それは人間の頑強な「自我」です。

その例が、創世記のヤコブです。・・・下記は、神の使いが、夜明けまで全力でヤコブと相撲(すもう)をとって、勝てなかったと言う場面です。そこで神の使いはヤコブのもものつがいを打ち、ヤコブはやっと自我が砕かれて神の御前に謙り、祝福を受けました。

 ヤボクの渡し

これ程までに、人間の傲慢は強かったので、神につるはしを振り上げられて打たれた時に初めて、ヤコブの心の畑の土の中にある自我の岩が砕かれた結果、この後の人生に於いて子孫は繁栄し、百倍では収まらない豊かな実をむすびました。

★「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネによる福音書15:1-2)





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「自由意志の目的」

ヤコブに代表される、神さまの御使いも戦って勝てないほどの、私たち信仰者の強い自我は、いったい何時から人間の心にあるのでしょうか?

それは、アダムとエバがサタンに騙されて「善悪を知る知識の木の実」を食べた時からです。

しかし何故、この神さまも勝てないような頑強な「自我」を生み出した「善悪を知る知識の実」を、アダムたちは食べてしまったのでしょうか?

それは、神さまが最初の人間であるアダムにも、御使いにも、全ての被造物を創造する時に「自由意志」を与えた事に原因があります。

御使いの三分の一は、神さまに反逆してサタンになったそうですが、その砕かれていない自我がもたらす最悪のリスクを負ってまで、神さまが被造物に自由意志を与えたのは、私たち人間と、真の純粋な愛で愛し合う事を願われたからです。

人間の行動面だけでなく、心の奥底までをご存知の、人間を造られた張本人である神さまが、強制的で表面的な礼拝で満足されるような鈍感なお方ではないからです。奴隷や兵隊のような気持ちで仕方なく礼拝を捧げる人間や、ロボットのように心に愛もないのに神さまに仕える天使がどんなに多くいても、神さまには何の喜びももたらしません。

被造物が、あらゆる選択肢が可能な中から、神との交流(礼拝)を最上の喜びと把握できない限り、神様は礼拝を喜ぶ事はできないからです。まことの礼拝のもたらす、心が溶けてしまうほどの歓喜を、互いに味わい合いたいが為に自由意志を与えました。

天の父が、私たちを創造した以上、そして自由意志を与えた以上、私たちに目的があります。
せっかく涙をのんで、試練と訓練の荒野に人類を下したのに、地上での命を終えて天国に戻って来る時に、私たちがエデンの園でのアダムのように、無知なままでは戻って来てほしくはありません。

アダムとエバは、聖かったのですが、幼かったのでサタンに騙されてしまいました。今度、天国に私たちが戻って来る時には、イエス様の身の丈(ガラテヤ2:20)にまで成長して、神さまの御心を知る大人となって、豊かな愛の交流が出来る事を、天の父は楽しみに待っておられます。

天国3

私たち人間が成長してイエス様の霊性(性質)を得、サタンに打ち勝ち、神様が人を造られた目的「真の礼拝者となる事」を果たして天国に帰る為に、先ずは私たちの心が耕される事が重要である事を学んで来ました。


罪を犯し、失敗を重ねて神さまに打たれた結果、やっと真の礼拝者の道を歩み始めるのが、私たち人間の常ですが・・・、

・・・神さまに打たれる前に、御言葉に従順して自ら悔い改め、粉々になるまでに自分の心の畑を耕して謙(へりくだ)り、真の礼拝者となって天の父を喜ばす事の出来る人がいたら、その人は稀に見る賢い人です。



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「実はまず心にみのります」


いずれにしても・・・、砕かれた心の畑に、天の御座から出る命の川から、私たちの心の奥底「霊の所」を井戸として水が流れて来ると、先ず私たちの心の中に御霊の実が豊かにみのります。

 御霊の実 ぶどうの枝

私たち人間は信仰者であっても、互いに自分たちの価値観で、目に見える外側の立派な実しか「実」として認めない傾向があります。それが、パリサイ人の宗教的礼拝や、カルト宗教に繋がる危険な考え方です。

しかし神さまは、外側に現れるものが、天から来ているか、人間の心のレベルから来ているのかを重要視されます。私たちの善が、何を動機とし、何処から力が出ているかが神さまの判断の絶対的な基準です。

★「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記上16:7)





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「毒麦も育ちます」


神さまの目から見ると、イエス様を通して心から生み出された実しか良い実として認識されずに、最後の審判の日、サタンの影響を受けた心の思いから出た善の実は毒麦として束ねられ、燃やされてしまいます。

★イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。・・・収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイによる福音書13:24-25.30) 

 毒麦のたとえ

ですから、一見、人間の善では良いように見えて(パラダイム)も、その実はいまわしく、神の善(パラドックス)から出る命の水で実を結ばないかぎり、私たちが信仰者であっても人生の存在価値(神さまの基準で見た良い評価と、それに対する永遠の中での大きな報いを得るチャンス)を喪失してしまいます。

クリスチャンに大きな勘違いが二つあります。

一つは、私たち信仰者の心の畑に、一本も毒麦がないと過信する事で・・・、もう一つは、私たちの心根にサタンの埋め込んだDNA「知識の木の実」があるのに、影響されていないとの信じて疑っていない事です。

イエス様のご生涯だけが、100%良い麦しかみのらなかったし・・・、善悪を知る知識の木の実を食べなかった存在はこの世に生まれた人の中に、イエス様しかいませんでした。

★「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)

私たちは、最後の審判の日、イエス様の再臨の日、自分の生涯の実でイエス様から来ないもの、命の木から来ないものは、どんなに肉の目から見て善に見えても、焼かれてしまいます。

★あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイによる福音書7:16-19)

私たちが、救いに関して、癒しに関して、様々な教会活動に関して、外に実を結ばせて下さるのは神さまの御業です。霊である神様の、手足となって働く私たちは、天と地を結ぶ管に過ぎませんが・・・、

一旦、何らかの実を見ると高慢になってしまい、その後は、自分の考えや実力で神さまの使命を果たそうとなりがちで、それがサタンの策略である事に気づき難いのです。パリサイ人もそれで失敗していましたが、自分が知識の木の実を食べ続けていても、気付く事がありませんでした。

★わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

私も若い頃には、イエス様がパリサイ人を叱責している場面を読む時、他人事として何らの心の痛みも感じませんでした。しかし、年を取るに連れて、知識の木の実である自己義が一人歩きし、他人を裁き、高慢になってイエス様の側からいつの間にか離れている自分を発見しました。私こそ、パリサイ人だと・・・。

私たちは、一度イエス様を信じて、その段階で留まって満足していては危険です。私たちは、イエス様を信じたら一生、イエス様から一瞬も離れず、イエス様の与えて下さる天国からの生ける水を飲み続けていましょう。

★「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(15:4)



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「人間の心を変える二つの方法」


天の神さまが、私たち人間に御言葉を与え、理解できるように聖霊を遣わせて下さっていますが、この自由意志がある限り強制は出来ないので、下記の二つの方法を通してしか人間に介入し、人間の意志を変え、御言葉に従順させる方法はありません。

①環境から働きかけて、心を動かす。
②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。


①環境から働きかけて、心を動かす。
 
ですから、私たちはどんなに苦しい試練を味わったとしても、御言葉の正しさと素晴らしさを知ったのなら、自ら心の一新によって、心の土を砕いて柔らかくし、御言葉を受け入れ、悟り、実行する事が大切です。

神さまからいただいた主要な御言葉には、報い(警告)が必ずついていました。先ほどのヤコブも、そして殆どの旧約聖書の信仰者(アダム・アブラハム・イサク・ヨセフ・モーセ・ヨナ・ダビデ・・・)は、それを事前には悟れず、不従順の罪を犯し、その実を刈り取って初めて神の言葉の正しさを知り、御言葉への従順の必要を深く学びました。

イエス様は、放蕩息子のたとえ話を通して、その聖書の基本的な真理を語っています。

放蕩息子が知識の木の実の結果である「自由意志による傲慢」で父の家を出て行く時、父はその後ろ姿を見送る他はありませんでした。しかし、天の父は、環境を変えて「悔い改め」を迫ります。ですから私たちに試練がある時、自分の心に御言葉に逆らっている所を、聖霊様に指摘してただく必要があります。

どんな大きな罪・汚れがあったとしても、どんなに神さまの御前に突っ張って我ままを通していたとしても、私たちが悔い改めた時、イエス様の十字架の贖いによって、私たちは再び天の父の大きく広げられた腕の中に抱かれ、父の家に永遠に住む事が出来るのです。本当に感謝な事です。

 放蕩息子6

http://www.ebibleteacher.com/chalmers/prodigal.html 
 
Sunday School⇒Children's Lessons⇒下方The Prodigal Son   


 
私たちがこの世の荒野で失敗しつつも、神さまの御言葉の真実を、少しづつ、一つづつ知る時、心の中に、霊から沸き上がる喜びと、天国の平安が体験できます。
★苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇 119:71 )


②信仰者の祈りに応える形で直接、人間に介入する。
 
そして、私たち信仰者の祭司としてのとりなしの祈りが、イエス様の再臨を迎えようとしている今の時代にあっては非常に重要です。

イエス様が天に帰ってから二千年近く経つ間、神様は世の人の自由意志を尊重してじっと忍耐をして待っておられました。しかし、悔い改めて神に立ち返る人は極めて少ないので、最後の手段として、天変地異をもって大きく環境を変えて人類に迫って来るからです。

 終わりの日の前兆

今ほど、天の父が私たちの祈りを必要としている時代はありません。

是非、私たちの心が自ら悔い改めて砕かれ、柔らかい粘土のように練りきよめられ、天の父の願うままに麗しき土の器と作り変えていただきたいと思います。

私たちが完全に大人となって、イエス様のように親孝行な者となり、父の願いである「全ての世の人々が『神の子、神の民』となり、天の御国に私たちと一緒に帰れるように」と、ただひたすら謙遜に祈ってゆきましょう。


英語での賛美ですが、一緒に礼拝に参加し、「私たちの心を、父の御心にかなう姿に練り上げて下さい」との真心からの願いを込めて、共に賛美を捧げましょう。




聖歌295番 「成したまえ なが旨」

 
① なしたまえ ながむね すえつくり 我が主よ 我はただ なが手の 内にある土くれ
② 降る雪の ごとくに 我が内を 白くし ながむねの まにまに 練りたまえ 我が主よ
③ 天(あま)下る 火をもて 我が内を きよくし なしたまえ なが手の 器なる我が身と
④ ながむねの なるとき 他の人は見るべし 我が内に ます君 キリストの姿を 
すえつくり=陶器師




3ライン


土の器

★しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(イザヤ64:8)



エンディング





★花のライン17休憩
2013年2月15日(金)コチラに続きます。

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| Ⅰ生ける宮(霊・魂・体) | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑















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