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天国(安息)への地図(1)「安息とは」

前回は、この世にあって、来るべき永遠の御国にあって、私たちの霊魂が四枚の幕で包まれる『平安』について見て来ました。その霊魂の平安こそは、天の父が私たちに受け取らせたい最高のプレゼントです。

「神の給う平安」とは、この世の常識から見たら患難としか見えない、四人の娘の死と言う最悪の事態に遭遇したスパフォード氏の心の奥底に天から下った「人知ではとうてい測り知ることのできない、神ご自身との交わりを通してでなければ体験できない『平安』」です。

★ピリピ4:6(口語訳)「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安

※世界中のクリスチャンに愛唱されている賛美「安けさは川のごとく」の作詞者スパフォード氏の『証』は下記からお読み下さい。2013年03月22日「キリストの岩③義の御座」 (7)私たちの「一粒の麦の死」
※この日の記事は折りたたまれていますので、開きましたらタイトル左下の≫ Read More をクリックして下さい。


全てに優るこの「全き平安」は、本来は私たちの体が死んだ後にしか入る事のできない「天国の安息」を生きている間に味わう素晴らしい信仰の体験です。

しかし、下記の御言葉は、私たちにはこの心の安息以外に、まだ到達していない「この世に於ける安息」があり、そしてその「この世に於ける安息地」は私たちクリスチャンに残されていると語っています。

★ヘブル4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

本日からシリーズで、神様が聖書全巻を通して示している「天国(安息)への地図(道)」を探してゆきたいと思います。

天国(安息)への地図(道)」とは正しく「天路歴程」で、天までの道の地図は聖書の御言葉であり、その道を照らすのは「聖霊」です。

この重要な真理を、「天地創造の七日間」、「出エジプトの歴史」、「幕屋の七つの器具」・・・が見事に示しています。このシリーズを通して、神様の「知恵」がどれほどに素晴らしいかを、皆様と共に味わってゆきたいと願っています。





ライン15
(1)「安息」

426の④六日間

今から六千年前(聖書の記録の額面通り)、神様は、天地万物を六日間で創造(同じく聖書の記録の額面通り)されました。創造の業を終えた時に神様がご覧になると、それらの全ては完璧で、その出来映えは非常に良かったので、神様はたいそう満足されました。

※現在の科学や歴史等の学問とは異なる地球の歴史六千年に対する解釈は今、創造論セミナーなどで説明されていますが、これに関しては「エデンの東」の中ほど≪パラドックス・パラダイム≫をお読み下さい。
数学用語であるこの言葉を、キリスト教界では「パラドックス(逆説に見える事の多い普遍の真理)」、「パラダイム(その時代、特定の分野に於ける変動的な真理)」と捉えているように感じますが、これが普遍の聖書の真理と、時代によって変化する人間界の真理と捉えています。


★創世記1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
★(口語訳)「それは、はなはだ良かった。」
★(新共同訳)見よ、「それは極めて良かった。」
★NKJV Then God saw everything that He had made, and indeed it was very good.


それ故に神様は、創造の仕事を六日間で終わらせた後、七日目に「完成」を宣言され、安息に入り、その安息の日を「聖」とされて取り分けて祝福し、その中で憩われました。

★創世記2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。2:3 神はその第七日目を祝福し、この日をであるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

ですから、私たちも日常の仕事から離れて体を休め、霊と心を尽くして神様と交わり、天から来る尽きない力と、人知では計り知る事の出来ない天よりの平安の中で霊魂が満たされる日が安息日の素晴らしさです。神様がこの日と特別に祝福し、私たちとねんごろに交わる為に「聖…取り分け」て下さったのです。

★出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

聖書の中で『安息』とは、私たちにとって「休み」や「平和」、「平安」・・・とも言い表されています。
(イエス様が地上におられて肉をまとっていた三十三年間以外は、三位一体の神様は「霊」として存在していまので肉体が疲労する事はなく、神様にとっては「安息」は単なる「休みの日」ではありません。)

★マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

★ルカ 2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

★イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。


★ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。






ライン15
(2)「完成」と「完了」

聖として特別に取り分けた安息日に、人間との深き交流で霊魂が平安と歓喜で満たされる真の礼拝を願って、神様は人間を創造されました。

しかし、人間の体も心も、そして神の御霊が宿る霊をも造られた神は、その礼拝の心が通り一遍の形式的なものでは満足なされない為に、全ての被造物に自由意志を与えました。

それで、悪を行う者が出る事も、神の御言葉に逆らう者の出現をも全て想定内の事でしたが、実際には被造物の自由意志は悪に大きく流れて行きました。全てのものを麗しく、完全に完成させたのに、悪が発生し、増大しました。

★創 6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた

罪を犯した人間には、永遠の死と永遠の罰しかありませんでしたが、天の父は御子を身代わりとし、永遠の安息である天での礼拝の民とする道を準備して下さいました。

★ヨハネ3:13 「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野でを上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

426の7

3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである

三位一体の神様は、天地万物と私たちを麗しく創造され、自由を悪の為に用いてしまった人間の為に十字架で救いの道をも準備なさいました。神様と私たちにとって「永遠の安息」は、六千年前に完成し、その為の十字架の贖いは二千年前に完了しています。

★ヨハネ19;30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
※口語訳「すべてが終った」 ※新改訳「成し遂げられた」 ※NKJV"It is finished!"


426の5

ここで注目すべき事実があります。

★創1:5-31 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。・・・「第二日」・・・「第三日」・・・「第四日」・・・「第五日」・・・ そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日

しかし、七日目の記事の最後には「こうして夕があり、朝があった。第七日。」と、七日目の一日が終了したとは記されてはいません

神様の「安息への言及」は、ダビデを通して詩篇95:7-11(ヘブル4:7)で語られた後、いきなりヘブル書四章の冒頭へ飛びます。

★ヘブル4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

私たちはまだ、神様が完成させ、完了して下さった真の安息の全てを受け取ってはいないのでしょうか。・・・神様ははっきりと、出エジプトの民の荒野での信仰態度の問題点を指摘して、神の民の受けるべき・・・、否、受け損なっている安息について語っています。

これは、未信者や偶像礼拝の人に語っているのではなく、聖書の御言葉を信じる私たちに語っています。






ライン15
(3)「七日目の安息」と「出エジプトの安息」

ここで先ず、天地創造の七日間とイスラエル民族の出エジプトとを対比してみたいと思います。

実は、当ブログの最大の目的は「キリストの幕屋」であって、この「天地創造の七日間」と、「出エジプトの民」と、「幕屋の七つの器具」と、「イエス様のご生涯」、「キリスト者の生涯」・・・・などが全て関係がああります。

それらを深く知る事によって、私たちの信仰がより深められるし、聖書の記事がよりわかりやすくなるので、これから順次紹介して行きたいと願っています。

第一段階として最初に、聖書では「出エジプト」の目的地「カナンの地」を、「天地創造の七日間」の七日目の「安息」と同一視している点に注目をしましょう。

 426の9

ヘブル書三-四章と出エジプト記ヨシュア記の言う安息はいくつか考えられますが、先ず三つを見て行きましょう。

①信仰者の体が死ぬか、再臨によって、私たちの霊魂が霊の体をまとって、永遠の命が与えられ、天国にあって神と共に永遠に生きる事。

②私たちが荒野であるこの世にあっても、心の中に天の御国(安息)が満ちる事。

③天地創造の七日間を七千年の区分と捉えて、旧約時代四千年間、新約時代二千年間、計六千年間。そして再臨後の千年王国を「安息」と捉える。


 ・・・・・・・・・・・


ヘブル書三-四章と出エジプト記ヨシュア記の言う安息の意味で、①「天における永遠の命」としての安息は先ず、消去されます。何故ならば・・・、

モーセは、メリバの事件で安息の地カナンには入れずにネポ山から見るに留まり(下図左)、そこで死んだのですが、イエス様が弟子たちを連れて変貌山に登った時に、エリヤと共に現れているからです(下図右)。
※ユダ9に、天使のかしらミカエルがモーセの遺体の事でサタンと言い争った記事がありますが、この時にミカエルが、モーセの遺体を埋葬し、霊魂を天に運んだとの推測が一般的です。

 426の8

★マタイ17:1 イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。

 ・・・・・・・・・・・

②心の中の天の御国(安息)については、モーセは完全に神を見、神と語り合い、荒野にあってたった一つの罪(キリストの岩を二度打った)を除いては、御言葉に忠実に生きましたので、心の中で安息を味わっていました。

しかし民は、御霊の雲が常に付き添い、紅海を開き、天から日毎のマナを降らせて奇跡を体験しても、モーセが取り次ぐ神からの言葉に従えず、表面上はモーセと同じく安息地カナンに入れませんでした。しかも、一つの失敗の罰として安息(カナンの地)に入れなかったモーセと違って、40年間の荒野の信仰生活を通して、神の怒りの対象となりました。

★ヘブル3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

モーセは、ヨルダン川を前にし、自分が入れないとしてカナンの地(安息)を見るだけに留まって死んだネポ山に於いて、遺体を埋葬する為に遣神様の命を受けて、天使の長ミカエルが点から遣わされましたが、彼らは荒野で死に、屍が荒野にさらされ、この世での安息(目的地カナンの地)にも、心の中の安息にも入れませんでした。その理由は「不信仰」と「不従順」で、それは正しく「御言葉」を尊重せず、偉大な神を恐れなかったからでした。

★ヘブル 3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
★ヘブル4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。


そして同じく、御言葉を知っている現在の私たちに対しても、神に対して恐れる心を持つようにと、神様はヘブル書の著者を通して忠告しています。

★ヘブル 4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

十字架によって贖われ、最低身ひとつで天国で永遠に生きる事の決まっている私たちも、ただ神の民となるだけでなく、その信仰生涯(神の民の荒野の40年が象徴)御言葉を尊重し、その深い意味を知って従順して行く道を歩みましょう。

★Ⅰコリント 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります


 ・・・・・・・・・・・


③天地創造の七日間を七千年の区分と捉えて、旧約時代四千年間、新約時代二千年間、計六千年間。そして再臨後の千年王国を「安息」とする捉え方(一つの説)があります。

この説の根拠とする三箇所の御言葉を紹介するに留めておきます。

★Ⅱペテロ 3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(詩篇90:4)

★イザヤ65:25 「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。(安息の様子)

★黙示録 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった



 ・・・・・・・・・・・


ヘブル書三-四章が語る、今現在の私たちクリスチャンにとっての目指すべき「安息の地」とは、既に確定している①の永遠の命ではなく、③の千年王国だとも今の時点では明らかに啓示されておらずに確定的ではありません。それ故に②の「心の中の安息」が私たちの第一に目指すべき「安息」です。

下に、天地創造の七日間に対応する、大まかな出エジプトの荒野の旅と安息(カナンの地)の図を示しました。出エジプトの旅は、私たちクリスチャンの信仰生涯を象徴しています。十字架の血で贖われ、洗礼を受けて「礼拝の民」とされた私たちが辿る「心の旅路」で、いかにモーセのように御言葉に忠実に生きるかが重要です。

426の2

★ヘブル4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。

ですから、私たちは聖書の御言葉に堅く立ち続け、心の安息を先ず確保しましょう。

モーセと民の出エジプトに於いて、エジプトからの贖い出し(救い)と紅海での洗礼(救いの確定)に関しては神様の側の戦いで、人間の戦いではありませんでした。

しかし、永遠の命が確定した後の「試練と訓練の荒野」での戦いは、心の中での信仰の戦いです。信仰者の心をかたくなにし、御言葉への従順を阻もうとするサタンとの戦いに私たちは勝利しなければなりません。心の中に於けるサタンとの戦いこそが、私たちが勝利して「安息」に入れるか否かの「霊的戦い」で、各自の自己責任です。


聖歌514番「光の高地に」

①ひかりのこうちに たむろなせる 主のつわものたち みをそなえよ
たにまにかくれて すきをうかごう あくまのてしたの かずはおおし

《おりかえし》 
しんこうはしょうり しんこうはしょうり しんこうもてよと あくまにかたん

②みはたはあいなり いざかかげよ つるぎはせいしょの みことばなり
むかしのせいとに ならいすすめ かれらははかにも てをひかせぬ
《おりかえし》

③ねむりむさぼりし まくやをいで ぶぐにみをかため てきちにゆかん 
すくいのかぶとに へいわのくつ せいぎのむねあて しんりのおび
《おりかえし》
 
かつものすべてに むくいぞある なまえよばれなば みまえにいでん
しろきころもきて しゅろをとりて しゅをたたえまつらん こえもたかく
《おりかえし》

オルガン伴奏はこちらから







エンディング 


しかし、モーセの入れなかった「カナンの地」と言う「安息」は、何に当るのでしょうか?

イエス様の再臨の迫っている今、それは教会にとっての「再臨前リバイバル」であり、
私たちクリスチャン個人にとっては「キリストの身丈に至る事(ガラテヤ2:20)」です。

何故なら、ヨシュアが率いる若き神の民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る時、
祭司たちが担ぐ「契約の箱」を先頭にして渡り始めた時に川が開き

Ark_Jordan.jpg

川の真中に「契約の箱」が留まっている間に民が渡り終えたからです。
契約の箱」とは、十字架に付けられたイエス様の象徴です。

これから私たちクリスチャン(異邦人の教会)の信仰が完成し(ガラテヤ2:20)した時に
初めて、イスラエルの民がイエス様を信じ、御心が成就する時が来るのです。

モーセの荒野の教会は、モーセだけがガラテヤ2:20に達しており、
高年齢の民は誰も、現在の教職者にあたる祭司ですら、大祭司アロンですら、
キリストの身丈に至っていませんでした。
しかし、再臨前大リバイバルに入るには、初心者はともかく
ベテランのクリスチャンが全員、キリストの身丈に達していなければなりません。

★ローマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、
ぜひこの奥義を知っていていただきたい。
それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは
異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。


この事が、「キリストとしての幕屋」にはっきりと表れているので、
次回から本格的に、「キリストの幕屋」を学び、
クリスチャンの完成に向かって行きたいと思います。



 3ライン






 ★花のライン17休憩
2013年5月3日(金)コチラに続きます。
「天国への地図(2)救いの段階」についてです。





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