FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

(1)キリストの岩①私たち生ける宮の「霊」の所の素材は?

 









(1)「神に会いたかった人・ヨブ」 


むかし、ごく短い期間に子供と財産と健康(悪性の腫れ物)を失うという、すさまじい試練の荒野に一気に突入した、ヨブと言う信仰者がいました。

町はずれのゴミ溜場の灰の中に座り込んで、土器のかけらで体中をかきむしっている惨めなヨブの所に、妻や、三人の友人が訪れましたが、何の慰めにもなりませんでした。

 ヨブ1

ヨブはその当時、信仰も行いも神の御前に世界(東方)一正しいと認められた信仰の達人でした。
そんなヨブでさえ、たて続けの試練に遭った時、試練そのものの苦しみもさることながら、自分のように正しい人間に、神が何故試練を与えたのかがわからずに苦しみました。

それで、死んでもいい、行けるものなら神の御座に行き、神が何故これほどまで自分を苦しめるのか、神にその訳を詳しく聞きたい、神と納得できるまで討論したい、「ああ、神に会いたい!」と、切に願いました。(ヨブ記13章、23章)

ヨブは試練の中で座して動かず神を激しく求めていると、突然、主は、嵐の中から怒りをもって現れました。

★「私が近くにいれば、神なのか。遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、私は彼を見る事が出来ないのか。天にも地にも私は満ちているではないか。」エレミヤ23:23-24

信仰者は誰でも、神に会いたいと願います。特に、試練の時には、神さまの存在も、聖書の御言葉も信じられなくなる時がありますので、神に会いたい、見たい、自分に対する約束の言葉を聞きたいと願います。

しかし、神さまは「霊」ですから、見る事はできません。特に旧約聖書の時代には、イエス様がまだ肉体をとって、この世界に降りてきていませんでしたから、見る事はできませんでした。 

主は御霊です。(コリント人への第二の手紙3:17)

※元来霊であるイエス様が約二千年前、受肉されてベツレヘムでお生まになる前の旧約時代には、The Angel(定冠詞のついた御使い)は、受肉前のイエス様だと言われています。“the Angel of the Lord”と記されている事が多いです。

創世記では、荒野に逃げた傷心のハガルに二度(創世記16章・21章)、モリヤの山頂でイサクに刀を振り下ろす直前のアブラハムに、“the Angel of the Lord”として、現れました(創世記22章)。

その他、出エジプト記3:2で、燃え尽きない芝の中でモーセに、その他、士師記2:1-4、5:23、6:11-24、13:3-22、IIサムエル24:16にあります。

ゼカリヤ1章では、イエス様と推測される“the Angel ”は、御父である主“the Lord”と対面して話す場面があり、また“the Angel ”は、その主の言葉を'Thus says the Lord of hosts:"と、預言しています。
3章ではサタンと同席し、12章では、これから訪れる最後の日のイエス様の現れを主の使いと語っています。

その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使い のようになる。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。(ゼカリヤ12:8-9)

★ "In that day the Lord will defend the inhabitants of Jerusalem; the one who is feeble among them in that day shall be like David, and the house of David shall be like God, like the Angel of the Lord before them. "It shall be in that day that I will seek to destroy all the nations that come against
Jerusalem. (ゼカリヤ12:8-9)




 ライン15

(2)「三位一体の神の表れ方」


神さまが人間にご自分を表す方法は二つあって、①一般(自然)啓示と、②特別啓示の二種類です。

ヨブに「天にも地にも私は満ちているではないか」と語った神さまのご自分の啓示の仕方とは①一般(自然)啓示で、私たちが天体望遠鏡で見るマクロの世界も、顕微鏡で見るミクロの世界も、神さまの存在とその力はついて、万民が知る方法です。下記は、新・旧約聖書からの、代表的な御言葉です。

★天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響きわたり、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-4a)

★神について知りうることは、彼ら(不義をもって真理をはばんでいる人々)に明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ人への手紙1:19-20)


②特別啓示の代表的かつ重要なのは、「聖書の御言葉」です。
★神のことばは生きていて、力があり(ヘブル4:12a)
★聖書はすべて、神の霊感によるもの(Ⅱテモテ3:16a)


三位一体の神として天地創造の以前、最初の永遠から存在しておられる御子イエス様(↓この方)は、御言葉の本体です。

★初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネによる福音書1:1-4)

そして、★すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(1:9)神さまであられるイエス様が、クリスマスの日、私たちが見える肉体をとって、この世に降りて来られました。

★ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(宿られた)。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(1:14-14)

ですから、イエス様の言葉と行いの様子が記された四つの福音書と、使徒行伝の最初と黙示録の最初は、私たちが、神さまそのものをはっきり見られる素晴らしいチャンスですので、単なる物語や言葉としてではなく、目を皿のようにして熱心に読みましょう。

★いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

その他、予言者や預言者とか、また御使いなどを通してとか、奇跡的に神さまが直接的に語られる事も特別啓示です。

しかし、自然啓示や特別啓示を見た誰もが、神さまを悟る事はできません。イエス様の十字架後に人類に降ろされた聖霊様が、それを教えてくれます。

ですから、イエス様は祭りの終わりの日、叫びました。

 生ける水の川8

神さまは、大自然と、御言葉と、イエス様と、聖霊様を通して、私たちに力強く語り続けて、その存在を人間に示しておられます。



 ライン15

(3)「主を見た預言者・イザヤ」


旧約時代を代表する預言者のひとりイザヤは、神殿と御座を見ました。BC700年中期頃と推測されています。

★ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。(イザヤ6:1-4)

私たちの住んでいるこの地は、サタンの支配下にあり、ニュースを見ては心が痛み、私たち人間に管理が委ねられている大自然を見回しても汚染に満ち、戦争のうわさや大自然の驚異にさらされている未来を見渡しても希望は見出せないのが現実です。

しかし、イザヤは、神の王座にの栄光が満ちている様を、確信に満ちて叫んでいるセラフィム(神の御座に仕える位の最も高い天使)の様子を伝えています。

 イザヤの見た御座

★イザヤ40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる

使徒ヨハネは、黙示録で天の御国の御座の様子を伝えていますが、イザヤは40章に於いて、私たちの住む地を覆う天幕に主が住んでおられると伝えています。

神の住まい

天地万物をお造りになり、それを維持しておられる神さまは霊ですから、その栄光に溢れる御臨在は、創造された全宇宙空間の全ての所に偏在しておられるのですね。




 ライン15

(4)「神の家を建てる・ソロモン」


ダビデの息子ソロモンは、父の代からの使命である神の住まい「神殿」を完成した時、次のような祈りを捧げました。
 ソロモンの祈り

荒野を四十年間、旅をしていたイスラエルの民の真中に神様が住む為に、モーセと民は、移動式のテント「幕屋」を造ったのですが、民がカナンの地に永住し、エルサレムを都として自分達だけが立派な建造物に住んでいるのは申し訳ないと、神の住まい「神殿」を建て、その至聖所に御座である「契約の箱」を置きました。

しかし、その立派な建造物の中の、神さまの宿る部屋「至聖所」には、とうていではないが、天も、天の天も入れきれる事の出来ない神さまの臨在を、当然に入れる事はできない事を、ソロモンは把握していました。




 ライン15

(5)「神さまの住める家・イエス様」


しかし、私たち生けるの宮の至聖所である「霊の所」は、神さまの霊が宿る事が出来るように、神さまが天地創造の六日目に造って下さった「空間」なので、大きな建造物である神殿の至聖所でさえも入れ切れる事のできなかった神さまの霊を、宿す事が出来ました。

イエス様は、十字架の贖いによって私たちを、私たちを聖霊の宮として下さいました。

天地創造の六日間で全ての「完成」が告げられましたが、イエス様は十字架上で、人類の全ての罪を贖って、「完了」を告げられ(ヨハネ19:30)、あらかじめ霊の器として完成されていた人間の霊の所を、聖霊が宿る聖い宮として下さったのです。

★「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり,あなたがたは,もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント人への第一の手紙6:19-20)

イエス様が私たち信仰者を聖い宮として下さったのは、天の父の為に「いこいの場・安息の家」を提供してさしあげたかったからです。そして、人間なら誰でも良いと言うのではなく、天の父の願いは、「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」です。

★主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:1-2)

私たちがサタンの性質である「高慢」を持ったまま、心の中の礼拝堂で天の父を礼拝する事はできません。御父の語られた御言葉を最も大切なものとして従い、悔いし、砕けた魂で十字架の御許にひざまずく礼拝者の出現を、御父は待っておられます。

ソロモンの大きな神殿にも、天にも、天の天にも入る事のできない神さまの存在を、私たちの心の奥底にある霊のところに住めるようになさったのは、十字架の贖いの功績です。

その代価を支払われた瞬間は、イエス様が最後の息を引き取られた時です。



 ライン15

(6)「救いの岩」


その時に初めて、神を信じる私たちの心の奥底にイエス様が宿り、天国(至聖所)にある神の御座が、そこにあるがごとく私たちは生きられるようになりました。

日本に生きる私たちは、いつ大地震が起こるのかと不安の中で生きていますが、私たちが永遠に住む神の都はの土台は、「永遠に変る事のない御言葉であり、そこに住む事を可能にして下さったイエス様の十字架の御業」です。

私たちの人間側の信仰の父「アブラハム」は、神さまの御声を聞き、御言葉に従っていましたが、神さまも、御座も見た事がないのに、この堅い土台に建つ天国の都を確信していました。

 堅き土台の都

今の時代も、旧約の時代も、神の御座を見たり、イエス様に会ったり、神の栄光に照らされた信仰者が稀にいます。しかし、私たちの信仰の父アブラハムは、神さまに出会わずして、その御座を見ずして、岩よりの堅い土台に建つ神の都を確信し、その信仰のゆえに、神さまに賞賛されました。

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル人への手紙11:8-10)

旧約聖書の時代の信仰者たちは、神の存在を岩と認識していましたが、特にダビデは、サウル王に命を狙われて荒野をにげまっわっている不安の日々、「主は救いの岩」と確信して告白し続け、賛美し続けました。

 主は我が岩

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31)


私たちの心の奥底にある「救いの岩」を、信仰の目で確認する私たちとなりたいと思います。

★「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネによる福音書20:29)




 ライン15

(7)「岩の上に信仰の家を建てる」



イエス様は、私たちに向かい、この岩の上に人生の家の土台を置くように言われました。

★わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイによる福音書7:24-27)


 岩の上に家を建てた人


イエス様は、一夜にして景色が変わってしまう砂漠の砂のように移ろいやすい「感情の砂」の上にではなく、しっかりと踏み固めたつもりの私たちの「意志の土」の上にではなく、心の土を掘って、心の奥底の霊の所に宿ったキリストの岩の上に直接、信仰の家を建てるようにと勧めています。

★わたしのもとに来て、わたしのことばを聞きそれを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。(ルカによる福音書6:47-48) 

私たちは、自分の信仰に信頼するのではなく、イエス様の岩に信頼を置く事に心を決めましょう。
実際には、御座の土台である「聖書の御言葉」「十字架の御業に、立ち続ける事です。


★志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ26:3-4) 



御一緒に、信仰を込めて、心からの賛美を捧げましょう。

 イエスこそ岩なれ



①望みは唯(ただ)主の  血と義にあるのみ
  如何(いか)でか他のもの  頼りとなすべき   
※如何でか・・・どうして(・・・することがあろうか)

 (くり返し) 
イェスこそ岩なれ 堅固(けんご)なる岩なれ
      他(ほか)は砂地(すなじ)なり

②御顔を見ぬ日も  恵みの手はあり
  波風何かは  錨(いかり)のある身に  
※何かは・・・なんということはない?
 (くり返し)

③御(み)誓い頼めば  大水も恐れじ  
※御誓い・・・人を救うとの神の誓い?
  もの皆消ゆとも  望みは主にあり
 (くり返し)

④ラッパの音(ね)響(ひび)く日  
義の衣(きぬ)纏(まと)いて
恐れず御前に  この身は立つをえん
 (くり返し)











 エンディング他印3




★花のライン17休憩
2013年2月22日(金)コチラに続きます。

スポンサーサイト

| Ⅱキリストの岩 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

週に一度 心のチャペル 心待ちにしています。胸をうたれ また深く教えられました。 ありがとうございました。

| 小峰幸子 | 2013/02/23 12:02 | URL |















非公開コメント

http://riversidechapel.blog.fc2.com/tb.php/5-29b5715a

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。