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天国への地図(4)幕屋四燭台⑦「天国への地図に存在する二本の道」

1★十字架のライン  
本日は初めて、「天国への地図」の全貌を明らかにしたいと思います。

イエス様を唯一の救い主として信じる事が、救いの最低条件です。
世の終末までにか、個人の終末までに、主の御名を呼び求めれば
誰でも天の御国の住民となり、神の輝く命に満たされて永遠に生きます。

生涯、自分の創造主を知らず、イエス様の十字架の贖いを知らずに
死ぬ間際に神の子とされる事は、本当に感謝な事ですが・・・、
私たち人間にはこの世で生きている間に、果たすべき使命があります。

人間創造の目的は、御子イエス様に似る者となるまでに成長する事です。
その為に、私たちは神の形(イエス様)に似せて、創造されました。

神様(御父)の御心にかなった愛する子イエス様に少しでも近付いて
私たちが天国に帰って行ったら、天の父はどんなに喜ぶでしょうか?

①使命を果たして天国で報いを受ける道と、
人生の早い段階で神の子になっても成長しないまま
世と個人の終末間際に信じた人と同じに、②身ひとつで天国に入る道
二本の道が存在します。

死ぬ間際に信じても天の御国に入れるとは
なんと素晴らしい天の父の救済措置でしょうか?
なんと大きな神の愛でしょうか?
その方々の為には、天国の永遠の中で、
神に対する多くの知識を学ぶ時間がたっぷりあります。

しかし、人生の早い段階で神の子になった人が、少しでも成長しないでいるなら
本当に天の父にがっかりされてしまいます。

多くの義の衣、多くの冠、多くの御褒美、天の御座近くの座を準備して、
天の父は私たちが戻って来るのを待っておられます。

聖書全巻を通して、特に天地創造と幕屋を通して示されている
天国への二つの道を示した地図を参考に、父に誉められる方の道を選びましょう。






ライン15
・・・・・「天国への地図に存在する二本の道」・・・・

イエス様は山上で弟子たちに、人間には永遠に向かって、二つの門があり、そこから二本の道が続いている事を、教えました。

 www-St-Takla-org--78-Consider-the-Lilies.jpg

★マタイ7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。






・・・・・(1)全ての人の「天国への地図」・・・・

この御言葉を広義に捉えると、全ての人間は死後に、狭い道を歩んで天国に行くか、広い道を通って地獄に行くしかないと言う意味になります。

 gn-22.jpg

もし、人間が一度限りの生涯であり、死んでしまえば完全に無となってしまうのであれば、まだ救われていない家族や友人知人の将来を思うクリスチャンの胸中は、ある意味でどんなにか穏やかでしょうか?

しかし聖書には、全ての人間の霊魂は永遠に存在して、裁きの時を迎える事がはっきりと記されています。

★ ヘブル9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・

私たちの肉体の死は、聖書で言う「第一の死」であって、肉体が滅んで土に帰るだけで、霊魂は最後の「白き御座の審判」で裁かれます。

 白い御座の裁判

使徒ヨハネは、パトモス島で未来に起こる事の幻を見ました。その中で、全ての人間が立つその御座の様子を見ました。

★黙示録20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

そこでは、私たちの生前の言動が記録された幾つかの行いの書があると記されていますが、そして私たちの行いに従がって報いを受けますが、最も重要なのは私たちの名前が「いのちの書」に書かれているかどうかです。

神様の高い基準で観ると、全員罪人であって永遠に裁きを受けるべき私たちは、イエス様の十字架の贖いによってのみ全ての罪や汚れが聖められて、神の子として永遠の命をいただき、天の御国に入る事ができます。

その最低の基準は、私たちがイエス様を唯一、真の救い主として信じる事です。イエス様を救い主として心底から頼った者は、神の子とされてその名が「いのちの書」に記録されます。

イエス様を救い主として信じる人が、天の御国に繋がる狭く細い道に入った人です。今はまだ、この狭い天国までの道に入る人は少なく、イエス様を知らずに広い道を歩んでいる人々が多いのです。

「神の国と神の義」である「幕屋」の入口の門である「救いの門」は、約10mあって、この世の中に向かって大きく開かれています。しかし、この世全体から見ると、亡びに向かう門は大きく、その道は広く、そこに向かっている人は圧倒的に多いのです。





・・・・・(2)「天国への地図」信仰者にとって二本の道・・・・

しかし、この二つの門と、二本の道のメッセージは、実際には一般の方々に語られたのではなく、そこに群集がいたとしても、弟子達に向けて語られました。

信仰者である神の僕、キリストの真の弟子でありたいと願い、聖い花嫁であろうとしている私たち信仰者に向かって、①天の御国に於いて冠を受け、多くの報いを受け、天国の宴会でアブラハムたちとご馳走に与るのか・・・、又は②天国に身ひとつでやっとやっと入って、宴会の外に出されて「歯噛み」をして信仰の生涯を激しく後悔するかの、二つに一つの道が存在する事を、イエス様はこの地におられる間に語っておられます。

イエス様は、神を信じ、神の僕、主の弟子であると自分で思っている私たちに向かって、天国で二通りの評価がある事を頻繁に語られました。

  身一つで天国に入り歯噛みをする広い道  狭き道を歩んでほめられる信仰者
心のチャペル012天路歴程_ppt
“Coco Cha”  http://riversidechapel.blog.fc2.com/  ©megu

天国に入れないのではなく、天国に入った時に、後悔する信仰者の方が多いと様々なたとえ話をされて教えておられます。

下記は、私たちに与えられた賜物を、神と人との為に充分に活用したか、しなかったかの「タラントのたとえ話です。ここでも天国に入った信仰者が、自分の人生を振り返って後悔し、歯噛み(歯ぎしり)をするほどに悔しがっています。 

 913の2
http://ce.ag-j.or.jp/i_pictureroll.html

最も如実にその真理を説明しているのが、十人の乙女の話です。

天国には入る事ができても、花婿キリストと教会の結婚式の宇宙で最大の宴会に、入る事ができなかった信仰者が存在し得る事が明記されています。

 913の3

韓国のT牧師はメッセージの中で、宴会に招かれなかった信仰者は、宴会のボーイやウエイトレスをするのではないかと、ユーモアを交えて推測していましたが、天国でそれぞれの信仰者の生涯が、良かったのか悪かったのかをはっきりと評価される事は確かな事です。

 913の4

そして個人への評価は、個人の終末か、世の終末で決まってしまいます。ノアの方舟の時に神がされた虹の約束は、一般の人の救いの門の閉じる時だけではなく、私たち信仰者のに対する永遠の中での評価が決まる「恵みの日」の締め切り日です。





・・・・・(3)キリストの幕屋を通る道・・・・

その為にどう生きて行くべきかを、天地創造の七日間を通して、幕屋の三部分と七つの器具を通して、そしてイエス様の生涯の歩みを通して、聖書ははっきりと示しています。

上記の「天国への地図(天路歴程)」の二つの道の部分を拡大しました。

新生の段階、十字架の血によって救われて贖い出され、洗礼を受けた段階に於いて、広い道を進んで天国に行くか、狭き道を歩んで天の高きに行くかの分かれ道が存在します。人生のどの場面でも、狭き門より狭き道に入る事ができます。どちらを通っても天の御国には行けます。

 913の5

左の道が、救われて永遠の命を得、いのちの書に名前が記されている信仰者が通る、広い道です。

右側は、同じくいのちの書に名前が記されている同じ信仰者ですが・・・、生きている間に、イエス様の身幅だけの狭い道を、イエス様の後だけに従がって、真直ぐに天の御国の高き所に通じる十字架の道を歩んだ信仰者の狭い道です。

 906の2

十字架の道とは、幕屋の道です。聖所に入る事です。聖所の入口で御霊を受け、その御霊に従がって行く事です。天国に向かって真直ぐに続いています。

 906の15

聖所の入口には五本の柱があって、その柱のサイズが記されていないのではっきりとわからないのですが、祭司たちが聖所に入る為に入ろうとする時、通り抜ける事のできる五本の柱の間は推定60-70cm内外の狭さです。そこから入るように、そこを歩み続けるようにと聖霊は常に私たちを導いておられます。その幅は、ちょうど飛行機のエコノミークラスの通路のように、大抵の体格の人ひとりがやっとやっと通れる程の狭さです。

※千利休は、茶室の入口をマタイ7章の「狭き門」を参考に造ったそうです。幕屋の聖所の入口をも念頭にあったとすれば、その信仰の奥深さに驚きます。

祭司や大祭司が、聖所の狭き入口より、幕を持ち上げてへりくだって入ったように、茶室の入口は狭く低くなっています。そして茶室に入る時には、全ての自分の持ち物を、どんなに高価なものでも外に置いて入らなければなりません。武士でさえも刀を外に置いて入る決まりでした。

 913の6
http://www.youtube.com/watch?v=LbdYOPNN2Mg

それと同じように、私たちは聖所に入る時に、私たちの思う願いを遥かに超えて素晴らしい未来を準備しておられる神と御言葉を信頼して、自分のこだわり、面子、計画、名誉、財産、自慢・・・・の全てを捨ててしまいましょう。

そして祭壇で義の衣である白い服を着ていてなお、数歩進んで砂や土で汚れた手足を洗盤で洗い聖め、聖所の狭き門にいる前に、祭司(神の僕・主の弟子)としての聖霊の力の衣を着てから入るのです。

一方、広き道を歩いている人たちは、救われてなお、自分の肉の思い(思弁・善悪を知る知識・人間の考える幸せ・神よりも遥かに低い価値観・・・・)を持ったまま歩んでいます。しかし、聖霊は細き御声で、肉の思いを全て死なせて御言葉に生きるようにささやき続けているのですが・・・。

右側の狭き道を歩む信仰者こそ、イエス様の幕屋を着る事を目指して、天より降った聖霊の衣を着、聖霊の油を切らさずに、その細き御声に従がって、試練と訓練の荒野(聖所)を通り抜けた信仰者の生涯です。天に於いて冠や報いを受け、御座近くの座に招かれ、宴会に入ってごアブラハムたちと共に馳走に与り、王の王である主と共に、地を治めるのです。

私たちは、天の御国に着くその日まで、どんなに厳しい試練と訓練の荒野を通ったとしても、涙を拭いつつ、イエス様の身幅だけの狭き道を、最も高き報いを目指してイエス様の後だけに従って行きましょう。

 913の8

★黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

 





エンディング




♪聖歌581番 「したいまつる主の」 


アルバム「愛する主のあとを」より  バリトン吉田浩  ピアノ吉田万代

1.したいまつる主の みまねきあるいま
十字架にないゆかん あいする主のあとを

※(繰り返し)
いずくまでもゆかん いずくまでもゆかん
いずくまでもゆかん あいする主のあとを

2.ちしおまじるあせ ながしいのる主の
ゲッセマネにもゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

3.うたれののしられ はずかしめうく 
ひとまえにもゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

4.きみのみめぐみに ひたりしわがみは
さかえのぞみゆかん あいする主のあとを
※(繰り返し)

オルガンの伴奏のみはコチラ


3ライン 



  ★花のライン17休憩

2013年9月20日(金)(コチラ)に続きます。
「天極への地図での聖霊の役目」を、イサクの嫁取りからお話しします。
 
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| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑















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