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(2)キリストの岩②「愛の御座」



  イエス様が十字架の苦難をもって
私たちの体を生ける宮として下さり
私たちの心の奥底である「霊の所」に
「キリストの岩」が出来た事を、御言葉から学びました。

私たちは、私たちの信仰の父アブラハムのように
神の御言葉と十字架の贖いを堅固な土台として
永遠にそびえる「神の都」を、
見えてはいなくても
信仰の目で確信して、生きるべきです。

そして本日は、その神の都の真中にある
「神の御座」の土台について、
御言葉から学びたいと思います。






 ライン15
 
(1)「神の御座」

天の父の愛する人間を、神の喜ばれる礼拝の民とする為に、イエス様は十字架の患難を忍ばれ、それ故に、その御名は全宇宙で最も高き名とされ、御父の座の右に着座されました。
※私たちは今、全ての被造物を従わせる事のできる、この最も高き力ある御名をもって、天の父に祈りを捧げています。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ人への手紙2:8-9)

★イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル人への手紙12:2)

★キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(ペテロの第一の手紙3:22)



十字架で流された血と死を通して贖いの御業を完了して、天に上られたイエス様は、御座に着かれて、御父と共に賛美を受けます。

その時、数多くの立場と職名(神のひとり子・王・花婿・万軍の将・羊飼い・大祭司・預言者・癒し主・勝利の主・・・)のイエス様は、「小羊」としての十字架の贖いの御業に対して、栄光と賛美とを受けておられます。

 ★小羊の御座s

★また私(使徒ヨハネ)は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)



 ライン15

(2)「父の心①;アブラハムのモリヤの山での礼拝」

しかし何故、十字架上で実際の痛みも苦しみも体験なされなかった御父も一緒に、栄光と賛美とを受けるのでしょうか?

それを考える前に、私たちの信仰の父「アブラハム」の人生最後で最大の試練「モリヤの山での礼拝」について、見てみましょう。

① これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

②翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。


  ★モリヤの山①-④

③三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
※アブラハムは、自分の一人息子を祭壇のいけにえとして神に捧げると言う「患難とも言うべき試練」を、「礼拝」と言いました。私たちは、普段の時に安逸な信仰生活を送っていますが、試練の時には神さまを激しく求め、そして神さまの御心を求めて切に祈り、そして御声を聞こうとして全身全霊で密接に語り合います。これが真の礼拝であるとアブラハムは捉えました。

十字架上でのイエス様こそが、真の霊的礼拝を捧げましたが、この時のアブラハムも自分以上に大切な一人息子の命を、生きた供え物として捧げる決意で、真の霊的礼拝を捧げていました。

★あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12:1) 


④アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。


⑤ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。

⑥そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」


 ★モリヤの山⑤-⑧  
⑦アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

⑧それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになるあなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。



 ライン15

(3)「父の心②;御父の心」

このモリヤの山の礼拝の場面に於いて、アブラハムは完全に天の父を象徴しています。

天の父は、偶像礼拝の家庭に育ったアブラハムを召し出し、人間側の人類の父と見立てました。ですから、新約聖書の最初の書マタイによる福音書の一章は、イエス様までの系図が、アブラハムから始まっています。アダムでもなく、神の御心にかなっていたノアでもなく、神に喜ばれていて生きたまま天に昇ったエノクでもなく、アブラハムから信仰者の歴史が始まっています。

その系図は、イエス様まで続いており、そのイエス様の十字架の死から、私たちは神の子、神の民として生み出され、アブラハムへの約束にあるとおりに、御子と共に世界を相続するのです。

★そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。(ローマ4:16-17)



天の父が、完璧な秩序(義)を持って天地万物を創造された時、罪が赦される為には、罪の全くない存在の血の贖いしかなく、罪の代償である死から救済される道は、完全に罪のない存在が身代わりに死刑になる他はあり得ませんでした。

全ての天地万物を無から創造され、自ら存在しておられる神が、どんなに愛がなくても、どんなにいいかげんでも被造物は何も言えませんが、私たちの創造主は、完璧に正義を貫き、想像も及ばない程の無限の愛に満ちておられる神です。

天のお父様は、創世の時に被造物に自由意志を与えた以上、人間への愛を全うする為には、最初から御子イエス様の血と死しかないと覚悟なされていたと推測されます。

しかし、その使命を最も愛する一人息子に託すにあたり、理性的に納得してはいても、感情的には非常に辛かったのではないでしょうか。モリヤの山での礼拝は、完全に十字架を象徴しており、しかも、御子を象徴しているイサクではなく、御父を象徴しているアブラハムに完全にスポットライトが当っています。、

  13★モリヤの山

自分自身が十字架の苦しみに遭うよりも、それを見ている父の方がどんなに辛いかを、アブラハムの一人息子イサクを御子イエス様と見立てて、同じ父親としての苦しみを、アブラハムに理解してほしかったのではないでしょうか。そして、アブラハムは、御父の心を知る、神の友と呼ばれました。

★「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙2:23)


天の父の信頼どおり、アブラハムは、神さまからの言葉に従順に従って、イサクを捧げました。

★信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。(ヘブル11:17)

下記の御言葉は、アブラハムの生涯のいくつかの場面にあって、特にモリヤの山では、イサクが死んでも神さまには再び生かせる力があると信じてイサクを屠ろうとした御言葉への従順により、イエス様を信じる私たちをも、信仰によって義とされる道が開かれたのだと読み取れます。

神の側の救いの道は、イエス様の十字架の血と死、御父の御力による復活とで完全に整えられました。しかし、それを人間が信じる事だけによって、得る事が出来るのは、アブラハムの信仰の従順を御父が確認してからの事だと考えられます。

★「彼(アブラハム)の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。(ローマ4:23-24)

意外に感じるかもしれませんが、聖書の教えの根本は、私たちが復活する信仰を持つ事で、それは天の父の力で、それをアブラハムは信じました。

★彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル11:19)

それは、十字架につけられる以前の、イエス様の御父に対する切なる願いと同じでした。

★キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)

アブラハムの生涯は、徹底して「天の父」への尊敬と愛を、私たちに指し示す役割があったのです。私たちは、御子イエス様だけに、尊敬と愛が偏らないようにしましょう。



 ライン15

(4)「父の心③;御子の愛と献身」


聖書六十六巻の中で、黙示録の一章と五章だけに、イエス様が、どのような動機であの苦しい十字架を選択されたかが、記されています。

イエス様は、御父があまりにも人間を愛し、その霊との親しい交わりをどれまで程に願っておられるかを、ずっと知っていました。ですから、神の愛する人間達を、神の子、神の民とする為に、十字架を決断されたのです。

御父を愛する御子イエス様の壮大なヴィジョンは、十字架の贖いを果たして、世界中のあらゆる部族・民族・国語・国民・・・を神の民として御前にずらっと勢ぞろいさせ、「父よ、これがあなたの民です」と紹介して、父を喜ばせる事だったのではないでしょうか。

 神の民2


下記は、今週の冒頭のイラストにある「天の御座の前での礼拝」の賛美です。

★彼ら(四つの生き物と二十四人の長老)は、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9-10)



 ライン15

(5)「御座の土台;御父と御子の愛」

御子を十字架につける最終決定をしたのは、ピラトではなく天の父でした。私たち人間を愛するあまりに、ひとり子のイエス様を私たちに与えると言う辛い選択をしたのです。

御子は御父を愛して十字架の苦難を受け入れ、御父は御子を愛するがあまり、実際に痛み苦しんでいる御子を見ている側の患難を味わいました。

モリヤの山頂での祭壇には、イサクの代わりに雄羊を屠った神さまは、ご自分の息子の時には、代わりを用意しませんでした。

 

アブラハムには、一人息子に自ら手を下すと言う悲しい思いも、苦しい思いもさせませんでしたが、天の父は代わりの雄羊を準備せず、イエス様を屠る決断をしました。

 ★モリヤの山2

アブラハムの刀を止めた天使は、”the Angel of the Lord”とあるので、受肉前のイエス様であるそうです。イエス様もまた、本当の十字架の時には、代わりの雄羊ではなく、ご自分が贖いの小羊として屠られました。やぶに角を引っ掛けていて屠られた雄羊は、イエス様の十字架の贖いの象徴でした。

 身代わりの

神さま父子は、二人で壮絶な患難を通ってまで、私たち人間を愛して下さったのです。

★神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一の手紙4:9-10)

天の御座の土台は、天の父の、想像も及ばない無限の愛と、たった一滴の水も漏らさない完璧な義です。その決して相容れない二つの土台の上に、十字架が立てられて流れ落ちる御子の贖いの血が垂らされて初めて、愛と義が一つに溶け合いました。

そのために御父と御子の味わった壮烈な患難に感謝し、それを私たちを愛するが故に受け入れる決断した心の強さを褒め称えて、全ての被造物は御座を取り囲んで賛美を捧げます。もうひとたび御言葉を通して、下記の御座の周りに、全ての被造物が取り囲んでいる天の礼拝に、心を巡らせましょう。

 ★小羊の御座L
 
★また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)











花のライン47



聖歌392番「神は一人子を」

  ①神は一人子を賜(たも)うほどに
世人(よびと)を愛し給(たも)う  神は愛なり

(くり返し)
ああ  神は愛なり  汚(けが)れ果てし 
我さえ  愛し給(たも)うほ 神は愛なり

強調文②罪をば犯して  神に背(そむ)き
敵対(てきと)う我さえ  なお愛し給う
(くり返し)
  
③罪赦(ゆる)さん為に  我に代わり
イェス君十字架に  死に給えり
(くり返し)
         
④いざ疾(と)く来たりて  神の愛に                  
汝(な)が身(み)を委(ゆだ)ねよ  救わるべし
 ※疾(とく)・・・速く 
(くり返し)  




花のライン47






★花のライン17休憩
2013年3月1日(金)コチラに続きます。
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