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(4)エデンの東⑥「知識の木の実のもたらせた原罪とは?」

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≪原罪と贖い≫

そしてこの、「知識の木の実」の結果である「人間の悟りや計画」に従って、自分の良いと思う道をそれぞれに歩み出してしまう時、それが人間の「原罪」と呼ばれる大罪です。

アダムとエバも、自分達の考えで知識の木を選んで食べる大罪(原罪)を犯し、それ以来の全ての人間がたとえ天の父の御許に戻りたいと切に願っても、決して戻る事はできません。天国の入り口には天使が門番をしていますから。

おのおのが自分の道にさ迷い出てしまって自力では戻れない私たちを、天国に戻れるれるようにする為に、神さまの側はどんな方法を取られたのでしょうか。

人類の全ては、アダムの後ろについて行列になって天国からこの地に降ろされて来たも同然です。しかしイエス様が、わざわざ神の子であるのに不便な肉体をまとってこの世にクリスマスの夜に降りて来られ、33才の時に十字架で私たちの救いの御業を達成して下さり、天国への帰り道を開いて下さいました。

下記左は、旧約時代のヤコブと言う青年が、兄を騙して家を追われ、荒野で石を枕に眠っている時に、天からはしごが下りてきて、天使たちがその階段を上り下りしているのを見ました。

天国への梯子

しかしイエス様は、地から天に向けて十字架のはしごをかけてくださいました。私たちは、イエス様のあとに行列のように従がって天国に帰る事ができるようになりました。

イエス様が、最後(第二)のアダムと呼ばれる理由です。最初(第一)のアダムは、せっかく神さまに息を吹き入れられたのに、罪を犯して霊の中の神の命が死に、私たちを従えてこの地に降ろされてしまいました。しかし、イエス様だけの後に従がって、私たちは天国の門に入る道が出来たのです。

★ 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。(コリント人への第一の手紙15:45)

寿命までしか肉の体で生きる事のできない人間が、霊の体となって永遠の天の都に入る事ができるとは、なんと言う祝福でしょうか・・・。

 412の21台にのアダム




・・・しかし天国の門に来た時、天使は真珠の門を開けてくれるでしょうか?

★私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)

おのおの、自分かってな道に向かって行った私たちの原罪と数々の罪を帳消しにして門に入る事が許可されるように、天の父は、その大切な御子に、アダム以来の人類の罪を背負わせました。

エデンの東7

罪を犯した者は死をもって報いなければなりませんが、罪の全くない聖い存在の死だけが、罪人の身代りとなる資格があり、救済する事ができます。神さま(天の父)の基準で見ては、人間の中に罪の全くない人は誰一人いないので、神の御子イエス様を、私たちの罪の身代わりとして十字架上で死なせ、永遠に輝く命を下さったのです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ 6:23)

この罪が一切無い存在の死のみが、死刑に定められた人の身代わりとなれると言う真理だけを世界中の子供達に理解させようとして、C.S.ルイスは「ナルニヤ物語」を書き、映画化されました。

ナルにア国物語

天の父が、その愛するたった一人の息子に、私たち人類の全ての罪を背負わせて十字架で死なせる他に、私たちを天国に迎え入れる方法は無かったのです。

ここに神さまの私たちに対する愛が示されました。

★神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一の手紙 4:9-10)

有名なイエス様のたとえ話「放蕩息子」もまた、人間の原罪であり、アダムが善悪を知る知識の実を食べた結果である「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行」きました。

 放蕩息子1

放蕩息子が、自分の頭で考えた方法で好きに生きていこうと家を出たものの、放蕩の末に父にもらった財産を使い果たして家に戻って来た時、父が暖かく家に迎え入れ、豪華な衣を着せ、祝宴を開いてご馳走をふるまい、再び息子としたのは、イエス様の十字架の血による赦しがあってこそです。

私たちは、罪の報酬が死しかないとは、何故そんなに深刻な原則があるのかと思いますが、三位一体の神(御父・御子・御霊)が天地を創造され、御使い(後に三分の一がサタンになったそうです)、人間を造られた時から、この罪と罰である死の原則はいささかも変わる事のない不動の「神さまの義」で、その「義」に正面から対立する「神さまの人間に対する愛」が、御子の十字架の患難しか道がありませんでした。







 ★花のライン17休憩
2013年1月31日(水)コチラに続きます。


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| Ⅰ生ける宮(霊・魂・体) | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑















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