FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

天国への地図(5)香壇⑥「聖所のまとめ」 



初めて「心のチャペル」をお読みになる方の為に
最初(2013年1月)からのメッセージのダイジェストを、まとめています。
現在、シリーズⅠ「生ける宮」コチラのダイジェストと
シリーズⅡ「キリストの岩」コチラa_new6.gif
完成しています。





1★十字架のライン

 
ライン15
「聖所とは?」 

聖所5
「燭台(聖霊)」    「香壇(祈り)」     「パンの机(御言葉)」

イエス様が、私たち人間に天国への道を示す為に、この世に救いの光として降りて来られ、30才になるまで普通に暮らされた後、罪も汚れもないのに洗礼を受けられ、その直後に天からの御霊の衣を着てから、使命であられる聖所に入られました。

聖所の中は、御言葉が満ち、聖霊が満ち、父の御心を祈る祈りが満ちている所です。

イエス様はここで三年半・・・、
御言葉の通りに忠実に生き、御言葉を伝え
聖霊の導く道に従い
日々、肉の思いを裂いて天からの思いの実現を祈って過ごされました。

私たちは、このイエス様の歩まれた天にまで通じる道を毎日歩む事によって、真の弟子、父の御心を祈る祭司、聖なる主の花嫁となる事ができます。

十字架前夜のゲッセマネの園でのイエス様の祈りは、最初は天の父の子供として御前に近付き、肉の思いを祈りますが、肉の思い(一粒の麦;プシュケー;魂の肉の命)を十字架に付けて死なせて「神の御心」の成就を祈り求め、サタンから圧倒的な勝利を得ました。

★ルカ 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

そして、私たち弟子に、命令されました。

★ヨハネ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのち(魂の命)を愛する者はそれを失い、この世でそのいのち(魂の命)を憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。







・・・・・(1)信仰生涯の中で・・・・

イエス様の私たち(祭司・弟子・花嫁)に対する信仰生涯の見本は、十字架の道です。

聖書には、様々な段階の信仰者に対する教えがありますが、最も高いレベルは、イエス様の十字架の道の教えです。肉の思いを十字架に付けつつ、日々を歩む人生です。

★マルコ8:34 それから、イエスは群衆弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。8:35 いのち(魂の命)を救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのち(魂の命)を失う者はそれを救うのです。

イエス様は、この世に生きている間には、肉の心を死なせるようにと命じました。ゲッセマネでの祈りの翌朝には捕らえられて、十字架上で体の命を捧げましたが、前夜は心の命を捧げました。

 117mp1

イエス様の体の命が十字架で死んだ(垂幕を裂いて体の殉教)時、復活の霊の体となって天の御国(至聖所)に帰りました。私たちが毎日、心の命を死なせるのなら(心の殉教)、私たちの霊魂はイエス様の身丈(至聖所の契約の箱が頭部)へと成長するのです。

イエス様が使命を受けた働きの場所である聖所の三年半の日々、十字架前の夜だけでなく、毎日肉の心を十字架に付け、父の御言葉に従い、完全に御霊に導かれるままに、完全に従いました。

★ヨハネ 5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」 
★マタイ 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

イエス様は神の子だからではなく、毎日肉の心を死なせて、神の御言葉を完全に守ったので、この地に居て霊魂が神の御国を見ていましたし、慰めや力を御国から得ていました。

体が死んだら霊の体が与えられ、天の御国に住むと同じく、心の自己主張が死んだら、心の奥底にある御国を味わう事ができるのです。

★ルカ 17:21 「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」




 

 
 

・・・・・(2)着地点(夢)を何処に置くのか?・・・・

イエス様の敷かれた十字架の道を歩もうと決意した時、何処に着地点を定めるのかは重要です。

十字架上でイエス様が息を引き取られた時、至聖所への垂幕が裂けましたが、私たちはその至聖所の中に、この世での歩みの終着点を定めているでしょうか?

45至聖所

聖書の御言葉の言う通り、什一献金をする信仰者はたとえ贅沢が出来なくても、一生の間生活費に困る事はありませんし、祈り求める時に病気も癒されると約束されているし、寂しい時に天からの慰めも受けますし、困った時に道を開いて下さる愛の神様が私たちと共におられます。

しかし、この世の栄誉や富、欲しかった何かの立場や物を受け取る時、そこが自分の最も求めている最終地点であったかどうかを、聖霊に御言葉を照らしてただいて、知る必要があります。

私たちの何かを求める熱心が、自分自身の欲から来ているのか、幼い日からの心の傷から来ているのか、自分自身の存在価値を自他に知らしめる為に求めているのかを、はっきりと知る事が肝心です。神様の為に生きているように見えて、その中に、自分の栄誉を忍ばせてはいないでしょうか。

★ガラテヤ 6:14 私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

もし私たちが、十字架につけられたイエス様以外に、目標とするものや誇るものがあったとすると、一生を終えた時に空しいものが残ります。それは、まさか自分の中にはないと思っていた「自分自身への偶像礼拝」です。イエス様だけを見、イエス様だけに従がって行かなくては辿り付かない場所が、私たちの終着地点であるべきです。

そこは、この地の聖所の中ではなく、垂幕(体、又は心の殉教)を裂いて入る所である霊の中にある「至聖所」で、父なる神と御子の御座の前です。

★ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び神の御座の右に着座されました。

熱心に祈り求めて、十字架以外のものを得て誇って「自分の人生はこれで万事良し」としたら、それはこの世での終着点であり、この世の人々と何の変わりもない滅び行くこの世での栄誉です。信仰者がここを終着点としては、御言葉の約束により裸一つで御国にようやっと入る事はできても、信仰人生は失敗です。

★ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい

★Ⅰテモテ 6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように


私たちは、自分自身のこの世に於ける夢ではなく、天の父が人間を創造する時に持っていた「イエス様の身丈に達した人間」の幻を・・・、

★創世記1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

・・・我が夢、我が幻、我が願い、我が目標、我が終着地点と定め、御言葉に従がってこの世を歩みましょう。イエス様のように・・・。

★箴言 29:18 がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。(新改訳)
★箴言 29:18 がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。(新共同訳)
★箴言 29:18 預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。(口語訳)  

 
 






・・・・・(3)イエス様の聖所での姿・・・・

十字架上でのイエス様の、聖所の中での様子を見てみましょう。

イエス様は、両手を広げられ、右手に神の力である「聖霊」を、左手に「御言葉」を、そして真中の心に、肉を裂いて神の御心の成就を祈る「香壇」がありました。

★Ⅱコリント 6:7 真理のことば神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

803の17 


私たちが、イエス様のように、心を一粒の麦として死なせるのであれは、私たちは真の弟子に相応しく、真の祭司に相応しく、イエス様の身丈に毎日近付いてゆきます。

そして、私たちの肉が死ぬのであれば、心の中のイエス様が両手を広げ、この地に於いて、敵の要塞をも破る働きを直接して下さいます。

★Ⅱコリント10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

その時、聖霊による大きな神様の御業が行われ、通り良き管となった私たちは、ただただ神様に栄光を帰す僕となります。

★ヨハネ 14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。 

私たちがイエス様の身丈に日々成長しなければならない理由は、イエス様の身丈のバランスを自分のものとしていただくためです。

イエス様は、バランスの取れた完全な姿です。なぜならは、イエス様は、全ての面《愛・義・聖・恵・真・謙遜・富・従順・柔和・平安・寛容・従順・誠実・忍耐・自制・・・・)で完全であられるからです。

私たち一人ひとりには、キリストの体の一部分の使命を担当します。しかし、そのどの部分を任されたとしても、私たち自身がイエス様の身丈のバランスを我がものとしている事が重要です。その為に、私たちは自分の肉の心を十字架に付けて死なせ、イエス様ご自身が我が内で生きていただく必要があるのです。

★ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちは、ヨハネ17章の「大祭司の祈り」のように、先ず自分自身が殉教の心を持った祭司となり、二番目にクリスチャンの心が聖められる事を、最後にキリストの身丈に至った私たちが多くの魂の刈取りをするに至りますようにと、互いに祈り合いましょう。

私たちがサタンの支配するこの世にいる限り、100%の完全はあり得ません。サタンは必死で私たちに戦いを挑んでいます。一時も油断は出来ない環境に居ます。

★黙示録目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない

この世での安全や祝福は、イエス様の完全を第一に求めて生きる時に、それらに添えて与えられます。





 ★花のライン17休憩
2013年1月23日(金)に続きます。「垂幕」についてです。



スポンサーサイト

| Ⅲ天国への地図 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑















非公開コメント

http://riversidechapel.blog.fc2.com/tb.php/84-813a186b

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。