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シリーズⅡ「キリストの岩」ダイジェスト


1★十字架のライン 
 

ライン15
シリーズⅡ「キリストの岩」 ダイジェスト



(1)「私たち生ける宮の霊の所の素材は?」
2013年2月15日(金)全文はコチラから

心の素材は「土」でした。では、霊の所の素材は何でしょうか?霊の所は、大いなる空間です。

人が土から造られた時、神様は鼻から神の輝く命である息を吹き入れ、人は生きるようになりました。知識の木の実を食べた時にその息は取り去られて、霊の所は再び神の霊がなくなり「空しく宇宙よりお広い空間」へと戻ってしまいました。

ソロモン王が神殿を建設した時に言ったように、どんな立派な建物を造っても、偉大な神は入りきれません。
★Ⅱ歴代6:18 それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

しかし、私たち人間の霊の所には、天も、天の天も入れる事のできない偉大な神が聖霊として住む事ができるのです。その霊の所は神が入って初めて満足できるので、人間は神以外のものがどれ程多くあっても空しいのです。世の栄華と贅沢を全て知り尽くしたソロモン王の晩年の言葉です。
★伝道12:8 空の空。伝道者は言う。すべては空
          
・・・・・・・・・・・・・・・ 

日本で生きる私たちは、いつ大地震が起こるのかと不安の中で生きていますが、私たちが永遠に住む神の都はの土台は、「永遠に変る事のない御言葉であり、そこに住む事を可能にして下さったイエス様の十字架の御業」です。

私たちの人間側の信仰の父「アブラハム」は、神さまの御声を聞き、御言葉に従っていましたが、神さまも、御座も見た事がないのに、この堅い土台に建つ天国の都を確信していました。

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル人への手紙11:8-10)

 堅き土台の都

私たちの信仰の父アブラハムは、神さまもその御座を見ずして、岩よりの堅い土台に建つ神の都を確信し、その信仰のゆえに、神さまに賞賛されました。

旧約聖書の時代の信仰者たちは、神の存在を岩と認識していましたが、特にダビデは、サウル王に命を狙われて荒野をにげまっわっている不安の日々を通る中で心の支えとなった来たので、「主は救いの岩」との確信を賛美しています。

 主は我が岩

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31) 

私たちが神を信じて救われた時に、私たちの心の奥底、空しく広大な霊の所に、天にる堅い岩(堅い基礎の上に建てられた都)が据えられたのです。
★ルカ「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

問題は、私たちが何処までそれを信じ、信頼できるかです。





(2)「愛の御座」
2013年2月22日(金)全文はコチラから


十字架で流された血と死を通して贖いの御業を完了して、天に上られたイエス様は、御座に着かれて、御父と共に賛美を受けます。

その時、数多くの立場と職名(神のひとり子・王・花婿・万軍の将・羊飼い・大祭司・預言者・癒し主・勝利の主・・・)のイエス様は、「小羊」としての十字架の贖いの御業に対して栄光と賛美とを受け、「贖いの小羊」として着座されておられます。

★小羊の御座s

★また私(使徒ヨハネ)は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5:11-14)

天の御座の土台は、私たち人間を愛するあまり神様父子が忍耐して下さった十字架の御業です。愛が土台です。

※最後に、聖歌392番「神は一人子を」があります


 



(3)「義の御座」①「愛」と「義」の土台
2013年3月1日(金)全文は

本日から七回に分けて、御座の義の土台について考えて行きます

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私たちの霊の所には、岩のように揺るぐことのない堅固な御座があります。
それは天の父の、それぞれ相反する愛」と「義」とが、たった一人の御子イエス様の十字架によって完全に両立した故に築かれた「御座」です。

しかし、神さま父子の「愛」と「義」は、どちらが強かったのでしょうか?

神さま父子に人間を愛す「愛」があったからこそ「義」を満足させる為に「十字架」を選択しました。もし御父が御子だけを愛して、人間を愛して下さらなかったら、「義」の出番はなかったはずで、父子共にとっての壮絶な患難である「十字架」は、存在し得ませんでした。

しかし、そのままでは永遠に亡びるしかない人間を救う為に、「愛」と「義」の双方がかなうたった一つの方法「十字架」が決行されました。

御父が御子を愛し、御子が御父を愛し、そして聖なる父子が私たちを愛したので、御子がへりくだって地に降りて来られ、忍耐の上に忍耐を重ねて「義」を貫き、「愛」を全うして下さったのです。

  13★モリヤの山


前回2月22日(金)コチラのメッセージに少し戻りますが、天の父が罪ある人間を神の子・神の民とする為には、十字架しかありませんでした。

しかし、その使命を最も愛する一人息子に託すにあたり、理性的に納得してはいても、感情的には非常に辛かったのではないでしょうか。モリヤの山での礼拝は、完全に十字架を象徴しており、しかも、御子を象徴しているイサクではなく、御父を象徴しているアブラハムに完全にスポットライトが当っています。、
 
アブラハムだけでなく、愛する我が子の死に遭い、十字架の時の御父の壮絶な苦しみ悲しみを共有された信仰者も多くおられます。その悲しみの中で、天の父に心を馳せた兄弟が作詞作曲された「父の涙」をお聞きください。

『父の涙』 作詞・作曲 岩渕まこと兄弟
 






 







(4)「義の御座」②「その日の二種類の締め切り」
2013年3月5日(火)全文はコチラから

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イエス様は、クリスマスの夜、御父に遣わされて、ダビデの町エルサレムの近郊「ベツレヘム」でお生まれになりました。

一度目にこの地に無力な小さな赤ちゃんとなり、へりくだった「救い主」として「初臨(First Coming)」なさったイエス様は、裁き主として裁きの火と共に「再臨(Second Coming)」されます。

 ★初臨と再臨

初臨の時のイエス様は、「愛と義」の「愛」を前面に十字架の死にまで従順に従った柔和なお姿で現れましたが、再臨の時には「義」を前面に、厳格な裁き主として天空に現れます。

クリスマスには、ベツレヘムの郊外で羊飼いたちだけが天の軍勢を見ましたが、再臨の時には、全ての人間が見ます。
★黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

この日、憐れみの、救いの、恵みの幕が降ろされます。
★Ⅱコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

この日は。二種類の締め切りの日となります。

①イエス様を救い主として信じなかった人に対する「救いの締め切り日」

②信仰者が何処まで御言葉を重んじ、イエス様の聖さに至ったか、イエス様の愛で人々を愛したか・・・の「評価(報い)の締め切り日」の二種類です。

①偶像礼拝の人を含む未信徒にとっても、②私たちクリスチャンにとっても、主の大いなる恐るべき日までにすべき事は、日常の全ての場面で主だけを救い主としてその御名を呼び、その堅固な救いの岩だけに頼り続ける事です。

★ヨエル 2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。2:30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。2:32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる
 










 (5)「義の御座」③「教会」の二段階の「裁き」
2013年3月8日(金)全文は コチラコチラから 

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クリスチャンは、イエス様を救い主として信じて救われ、永遠の命をいただいて天国の住民となったので、死んだら裁きの火を通らないと思っておられる方が多いと思います。しかし、聖書ははっきりと言います。

★ヘブル9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・

イエス様の再臨の時、信仰者には自分の信仰生涯に於いて、イエス様の贖いの土台の上に何を建てたかが裁かれます。

★(Ⅰコリント3:9-15) 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。


 土台の上に

 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(Ⅰコリント3:9-15)

行動を積み重ねる信仰者の心の動機が聖いものであって、豊かに報いを得られる為に、イエス様の枝に繋がっていて、先ず天からの水によって心の中に実を結んでいる事が重要です。

 御霊の実 ぶどうの枝

心の中に御霊の実を結ぶと、その心の実と、その実から出た行いが、最後の裁きの火で焼かれないからです。

最後の時に焼き残るものが何もなくて、裸同然、身ひとつで天国に入る事がないように、イエス様は私たちが生きている間に、心と言動の中の天から来ないものが先に焼かれてしまう事を願っておられます。

★ルカ12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

これから、イエス様の再臨に向けて、信仰者はひとりひとりが、モーセのように整えられて、私たちの周りの人々をこの世から出エジプトさせて、永遠のカナンの地「天の御国」に連れ上る使命があります。 

私たちの信仰の父のアブラハムも、モリヤの山での使命を果たすに当り、長い期間、その心と言動を試練の火によって聖められました。

神様の御言葉を細部まで守らなかった時、地獄の暗闇の中に置かれ、大きな罰を与えられました。

アブラハムへの不従順アブラハムへの罰

★日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(創世記15:12)

私たちも、生きてこの地にいる間こそ、どこまでも自分中心である肉の思いを日々火によって焼き尽くされ、天からの水を世に流す管となれるように聖霊に取り扱いを受けます。私たちは日々、生ける神の宮として完成を目指して生きているべきです。

★Ⅰコリント3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 

 

 



(6)「義の御座」④「ソロモンの神殿の土台岩」
2013年3月12日(火)全文はコチラから 


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なぜなら、私たち個人の「生ける教会(神殿・宮)」も、集合体の「地域の教会」も、古今・未来・東西南北の信仰者からなる「キリストの身体なる教会」も、完全で不動の「義の岩盤」の土台の上に建っているからです。

 ★ソロモンの神殿

現在、このソロモンの神殿(第二神殿)の跡地と把握されている所は神殿の丘と呼ばれ、イスラム教のドーム(金色)が大きな岩を覆うように建てられています。

私たちの信仰人生の土台も、砂の上にではなく、岩の上に建てるようにとイエス様は語っています。

私たちの心(魂)は土でできており、表面の感情の砂は絶えず環境によって揺れ動き、踏み固めて強固と思われう意志でも知識や知恵や経験ももろく、土台とはなり得ません。

★ルカ6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

 岩の上に教会を建てる2

どんなに賢く、どんなに強く、どんなに美しく、どんなに善に満ち、どんなに不滅のように見えても、神の御言葉よりも確かな土台はありません。

御言葉の本体であられるイエス様が愛と義を貫いて下さった十字架の堅き御座が、私たちの土台岩で、その他の被造物は何も土台とはなり得ません。

その、天の堅き岩なる御座が、私たちの心の奥底「霊の所」にあるのです。

主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。・・・主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。(口語訳;詩篇18:2.31)

最後に聖歌 450番 「何ゆえみ神は」の賛美があります
会衆が楽しそうに手拍子をしながら賛美しています


 


 

 

 




(7)「義の御座」⑤「麦の打ち(脱穀)場である岩」
2013年3月15日(金) 

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ソロモンの神殿は、大きく平らな岩盤の上に建てられましたが、そこはかつて、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山でした。

 モリヤの岩山2 神殿の基となった岩


その後、この岩のダビデの前の所有者で、エルサレムの先住民であるエプス人の「オルナン」は、この岩を麦の脱穀場として使用していました。その様子は、イエス様が話された最後の収穫の時の裁き、そのものです。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(マタイによる福音書13:37-43) そして、麦と毒麦と分けた後、麦の穂を日に干して乾燥させてから脱穀をしますが、実の入っていない穂は、風に飛ばされてしまいます。

ですから私たちは、ぶどうの木であるイエス様に繋がり続け、天からの命の川を飲み続けましょう。

もみがら
 
ダビデがオルナンから打ち場を買い、ソロモンが神殿を建てました。

 2オルナンの打ち場

神殿の丘の中心的存在は、黄金のドームの真下にある「聖岩(アッサフラ)」です。それは長さ17・4m、幅15・3m、高さ2mほどの石灰岩です。この岩は元来「エブス人アラウナ(オルナン)の麦打ち場」(サムエル記下24・18)でした。広々とした風通しのよい台地に大きな岩があると、そこは農夫にとって最適の脱穀場になります。刈り入れた麦の穂をその上に敷き並べ、太陽の熱で乾燥させてからその穂を打つと、実と殻が分離します。そして箕を使って、実と殻を吹き分けます。(聖地旅行記・高橋秀良牧師説教集より)そこを買い取ったのがダビデでした。

私たち信仰者は最後の日、この打ち場で裁かれます。

一粒でも多く、私たちの人生に実が残って天の父に「良くやた私の僕!」と喜んでいただけるように、イエス様に繋がり続けましょう。

ダビデ王は、神様が祝福して与えられた民を自分の栄光として、この打ち場に立って民を裁いている「抜き身の剣を持った天使」を見ました。

これから魂の大収穫を見た時、私たちが自分の栄光とする大罪から守られる為、イエス様の謙遜の身丈に至りましょう。

全文はコチラから 

 

 

 



(8)「義の御座」⑥二人の方の「一粒の麦の死」
2013年3月19日(火)全文はコチラ

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イエス様は、私たちが豊かに実を結ぶ為に、一粒の麦として自分の肉である魂の主張を退けるようにと仰いました。

日本語では「命」の言葉が一つしかないので、ギリシャ語に忠実に訳された「回復訳」を読んでみましょう。

★回復訳ヨハネによる福音書12:24「一粒の麦が1地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。 12:25 自分の魂の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の1魂の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」

 生ける宮の三つのいのち
ギリシャ語の聖書では、人には三つの部分の命が区別されているそうです。


体の麦の殉教は尊く、一生に一度訪れるチャンスがありますが、心(魂)の麦の殉教は毎日できて、この地に豊かな収穫を見る事ができます。

 再臨前の大収穫

イエス様こそが、一粒の麦として全てを裂いてくださいました。

アブラハムも、自分自身が殉教死するより辛い息子に本気で剣を振り下ろし、私たちに大きな祝福の約束を御父からいただきました。

★ローマ4:23 「彼(アブラハム)のとみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰をとみなされるのです。 4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 この二人の方の「一粒の麦の死」の全文はコチラ


最後に十字架の御業に対する神様への感謝の賛美があります
聖歌711番「ほむべきかな」


 

 

 



 (9)「義の御座」⑦私たちの「一粒の麦の死」」
2013年3月22日(金)


本日は、自分の肉の主張である「魂(プシュケー)の命を、自ら殉教死させたのではなく、ヨブのように突然の相次ぐ災難により、一粒の麦である心(魂)が裂けてしまった信仰者の体験です。

一時に、幼い四人の娘を客船の沈没で失ってしまって心に、天から来る「人知では到底知る事のないあってきな平安」が押し寄せて来ました。その様子を詩にしたものが、賛美歌となりました。

329すげて安し

この、古くから世界中で愛唱されている賛美「安けさは川のごとく」の背景を知って、「真のキリストの弟子」の姿を見てゆきたいと思います。下は日本語の歌詞と賛美です。 

聖歌476番「安けさは川のごとく」
 
この賛美の作詞者であるスパフォード(1828-1888)は、シカゴで有能な弁護士として、裕福平穏であり幸せな日々を送っていました。

彼はたった一人の男の子を病気で天国に送っていましたが、四人の娘の父親であり、長老教会の熱心なクリスチャンでした。その富を持って当時のリバイバリストを支援していました。しかし、ヨブのように資産を大火で失い、四人の娘も同時に失ったスパフォード師の心は、天の御国(至聖所)から来る、悲しみを圧倒する大きな慰めを味わいました。

人間の幸せの基準を遥かに超越する、天地創造の七日目の御国の平安・安息を味わう事は、天地が創造された大きな目的です。信仰者の多額の献金や、奉仕や、病気などが癒された証も素晴らしいのですが、それらに優る体験が信仰の世界に存在します。

世の人、信仰者が聞くべき証の最たるものは、霊の所から心に湧き上がって来る、天からの生ける水の体験ではないでしょうか。

 全文はコチラから 







(10)「キリストの岩の裂け目」」
2013年3月29日(金)

私たちがこの世にあって、絶望の中でも、患難の中も、逆境の中であっても、天の御国の安息・平安を得るには、どのようにしたらよいのでしょうか?そして、天の御国は何処から流れて来るのでしょうか?

イエス様が十字架上でご自分の全てを捧げて下さって私たちに与えられた「神の命(ゾーエー)」を「神の安息」と捉えて、見てゆきたいと思います。

天地創造の七日目に、御父が入られたのは単なる休憩ではなく、「御国の全き安息」です。

★そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。・・・こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記1章2章より

★ヘブル4:3-4 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっている のです。 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

正しく前回の賛美「安けさは川のごとく」の「全て良し」であり、「全て安し」です。
そして、天地創造の時、既に全て御業は完成していました。それを、私たちが日々の歩みの中でどう「御国の全き安息」を実感するかだけの問題です。

スパフォード兄弟の心が裂けた時に味わった「御国からの安息」は、地上にあってどのようにして体験できるのでしょうか?本日は、旧約聖書の神の僕たちが心を裂いた時を調べつつ、その天からの水が何時、何処で、誰が流れるようにして下さったのかを、御言葉により検証して行きたいと思います。

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329主題

ウオッチマン・ニーは、神のいのちの霊(ゾーエー)を包んでいる自我の硬い魂(プシュケ)を、石膏の壷のごとくに砕けば、心の奥底の霊の所から、神のいのちが香油のごとくかぐわしく出現する事を、マリヤの行為を通して説明しています。

★イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ14:3)

石膏の壷
1杯
詩篇23篇「私の杯(霊)は溢れます」

もし、私たちが魂の主張を裂いて死なせるのならば、私たちの心の奥底に閉じ込められていたキリストの香りが、自分の心や体を満たすだけでなく、この世に流れ出して行く人となれるのです。そしてそれは、天の父の御前にも、父を喜ばせるかぐわしい香りとなります。

★Ⅱコリント 2:14-15 神は・・・至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放って くださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

神の僕モーセは荒野で乾いた時、岩の裂け目から水が湧き出てくる体験をしました。神の杖で岩を打ったら、岩の裂け目から水がほとばしり出て、人々を潤しました。その岩はキリストであると、聖書ははっきりと語っています。

★1コリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

そしてキリストの岩が裂けたのは、イエス様が十字架上で息を引き取られた時です。

 329キリストの岩

聖書の人物も、今を生きる信仰者も、心を裂く場面はそれぞれです。しかし、私たちのお腹の底からわきあがって来る命の水は、イエス様の岩が裂かれた裂け目からです。

その裂け目の入ったキリストの岩が、私たちの心の奥底、霊の所にあります。至聖所の契約の箱は、天の堅い御座を表しています。

※契約の箱の贖いの蓋の上には、ケルビムが二体あって、その隙間から天からの栄光が入ってきます。アダムたちが罪を犯してエデンの園を追い出された時に、戻れないように門が閉鎖され、ケルビムが万人として見張っていました。しかし、十字架の血を確認すると、ケルビムは天からの栄光を、慰めを、生ける命の水を流す事を許可するのです。

また逆方向に、私たちの肉体が死んだ時、又は再臨の時、十字架の血によって罪赦された者に、ケルビムは天国の門を通る事を許可するのです。

 ★円形の栄光

十字架の御業に感謝して、最後に聖歌「十字架のかげに泉わきて」の賛美があります。

全文はコチラから







    
(11)「キリストの岩の裂け目に隠れる」
    2013年3月29日(金)

二人の、キリストの岩の裂け目に隠れた神様の僕がいました。



モーセの場合

モーセは、出エジプトして一年目に、シナイ山で十戒の石をいただいて民の待つ麓に下りた時、彼らは子牛の偶像を作り、祭りをしていました。

45黄金の牛

モーセは、民の頑固は性格と、兄のアロンでさえ加わっていた事に怒り、自分の能力の限界を自覚し、完全に自分の肉の力に絶望して、究極の祈りをします。

★33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

神様はモーセに神の栄光を見る事ができない事を伝えました。宇宙に太陽系がどれ程に数多く存在するかわかりませんが、たかが被造物のひとつに過ぎない太陽の側にすら人間は近付く事はできません。ましてや神の栄光を見たら、死ぬどころか、溶けてしまうでしょう。

★33:19 主は仰せられた。・・・「あなたはわたしのを見ることはできない。はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

そこで、神様の提案があり、モーセは岩の裂け目に入って、なおかつ神の御手に守られて、神の後姿を見ました。

★33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

45モーセ岩の裂け目

このようにしてモーセは、もう一度シナイ山の頂に石版二枚を携えて上り、岩の裂け目に隠れ、神の御手で守られて神の臨在(栄光)を体験しました。


エリヤの場合

偉大な預言者エリヤは、飢饉の中で鳥や未亡人に奇跡的に養われ、アハブ王が率いる偶像バアルの450人の預言者とカルメル山で戦って大勝利を収めました。しかし、その勝利の後、アハブ王の王妃イゼベルに命を狙われた時、非常に恐れて荒野へと逃げ、荒野の中で死を願うほどに落ち込みました。

★Ⅰ列王 19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
エリヤは、荒野の中で御使いによって養われ・・・、

★19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 

 45エリヤの荒野

★19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。 

・・・元気を回復して、かつてモーセが神と出合ったホレブ山を目指して旅立ちました。

★ 19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえて・・・

 45エリヤの山頂

シナイ山、ホレブの山は岩山です。エリヤもまた自分に絶望し、主の山の頂のほら穴の入口「キリストの岩の裂け目」で、神の臨在を体験しました。







私たちの場合

私たちは、自分の能力に完全に絶望し、イエス様が十字架で裂いて下さった岩の陰に、モーセのように、エリヤのように隠れ、神様の栄光を見せていただきましょう。

絶対に、一人で外に出て行かないようにしましょう。私たちはイエス様の十字架の御許にいる時だけが安全で、豊かな実を結ぶ事ができます。一人で、自分の力で神様の働きをしようとすると、サタンの標的にされて敗北してしまいます。
岩で囲まれた洞窟の内側、キリストの岩の裂け目に留まっていましょう。

 45岩の裂け目

最後に、聖歌248番「隠せや我を 永久(とこしえ)の岩」の
微笑ましい英語の賛美と、日本語の歌詞があります。

全文はコチラから






 ★花のライン17休憩

ダイジェストのシリーズは、まとまりしだい随時、
2014年の元旦からの日付で公開して行きます。
シリーズⅢ「キリストの岩 」のダイジェストは
2013年1月3日(金)掲載します。



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